成し遂げる力=あきらめない 2024年度6月度座談会拝読御書「曽谷殿御返事(成仏用心抄)」

創価学会では、毎月、全国各地で座談会という集いを開き、鎌倉時代の日蓮大聖人(1222年~1282年)が書き残された「御書」(論文や手紙など)を学び合います。機関誌の「大白蓮華」や「聖教新聞」には、その月に学ぶ「座談会拝読御書」を解説する記事が掲載されていますので、ここでは、信仰を持っていない方々にも理解しやすい視点から、青年部員が御書の内容を解説します。

だんだんと雨季に入ってきました。
雨の日は気分が落ち込むという人もいると思います。

かくいう私も、先日、職場で新たなプロジェクトを立ち上げることになり、ちょっと前まで、気分が落ち込み、胸の中のモヤモヤが続いていました。

上司から〝若い発想で!〟と言われ、「もうそんなに若くないんだけどな」なんて思いながらも、必死に斬新な内容を考えては練り直してを繰り返し、なんとか上司へのプレゼンにこぎつけたんです。

ところが、上司からは手厳しい一言がありまして、「いやいや、そんなこと言ってたら新しいことなんてできませんよ〜」と喉から声が出かけました(むしろ、ちょっと出てました)。感情的に「もう、あきらめちゃおうかな…」と投げ出したくなってしまったんです。

そのあきらめかけたプロジェクトを、なぜやり遂げられたかというと……今回の御文の中に、そのヒントがありました。

新しい挑戦を始める方も、今まさに困難にぶつかっているという方も、ぜひ一緒に学んでいきましょう。

拝読御書について

今回は「曽谷殿御返事」です。日蓮大聖人が1276年(建治2年)8月、身延の地でしたためられ、下総国(現在の千葉県北部等)の中心的門下であった曽谷教信か、その一族の誰かに送られたお手紙です。

別名を「成仏用心抄」ともいい、その名の通り、成仏のために用心すべきことを教えられています。

それは端的に言えば、「師匠を間違えてはいけない」ということです。

大聖人は、すべての人々を救う最高の教えである法華経を実践する正しい師でありました。法華経への確信から、誤った教えを信奉する人々を諫めました。

すると、法華経に示されている通りに、大聖人は流罪に処され、命の危機にも及ぶ迫害に遭うことになります。しかし、「いまだこりず候」との覚悟で、いかなる難にも屈することなく、民衆救済のために戦い続ける決意を示されます。

今回学ぶ範囲は、最後の「いまだこりず候」との決意を述べられる部分です。

大聖人の戒め

本文

この法門を日蓮申す故に、忠言耳に逆らう道理なるが故に、流罪せられ、命にも及びしなり。しかれども、いまだこりず候。法華経は種のごとく、仏はうえてのごとく、衆生は田のごとくなり。

(御書新版1435ページ12行目~14行目・御書全集1056ページ13行目~15行目)

意味

この法門を日蓮が説くので、〝忠言は耳に逆らう〟というのが道理であるから、流罪に処され、命の危険にも及んだのである。しかしながら、いまだ懲りてはいません。法華経は種のようであり、仏は植え手のようであり、衆生は田のようである。

冒頭の「この法門」とは、仏の真意であり、あらゆる人の成仏を説いた法華経のことであり、先に述べた「師匠を間違えてはいけない」という大聖人の戒めです。

これが、諸宗を信じる人たちにとっては〝耳に逆らう忠言〟でした。

「忠言」とは、その人のためを思って不正や欠点を改めるように注意する言葉です。「忠言耳に逆らう」という道理は古代中国の言葉で、聞く者にとっては耳が痛く、素直に聞き入れることが難しい、ということ。

平易なところで言えば、子どもが家族から「勉強しなさい」と言われても、素直に勉強しないこととか。私も経験ありますし、似たような場面は日常生活の中にたくさんありそうです。

ただ、大聖人の「忠言」というのは、個人的な主観からのアドバイスや助言といったものとは異なるものです。あらゆる経典を読まれた上で、文証・理証・現証の「三証(注1)」を踏まえた仏法の上からの〝忠告〟でありました。

(注1)三証[さんしょう]
人々を幸福へと導き成仏させる正法かどうかを判定する基準。①文証とは、経典など根拠となる文言。②理証とは、理路整然とした論理による証明。③現証とは、実際に現れたものごとの証拠。

当時の人々は阿弥陀仏や大日如来を信奉しており、法華経をないがしろにしていました。

大聖人はそうした諸宗の人々に対して、根本とすべき師匠を誤ってはならないと、誤りを強く責めたのです。

それは経典に照らした上での行動であると同時に、〝苦しみに満ちた社会の人々を断じて救わなければならない!〟という、大聖人の烈々たる気迫からくる〝忠告〟だったはずです。

その叫びは、誤った教えに執着する人たちにとってはこの上ない「忠言」であったために、強い反発を招きます。続く御文の中で「流罪せられ、命にも及びしなり」とある通り、「竜の口の法難(注2)」や「佐渡流罪(注3)」といった大きな迫害を生むことになりました。

(注2)竜の口の法難[たつのくちのほうなん]
文永8年(1271年)9月12日の深夜、日蓮大聖人が斬首の危機に遭われた法難。

(注3)佐渡流罪[さどるざい]
日蓮大聖人が文永8年(1271年)9月12日の竜の口の法難の直後、不当な審議の末、佐渡へ流刑に処せられた法難。

自分が植え手になる

ところが、そこはやはり大聖人。命に及ぶような難が起こっても、「いまだこりず候」と強い覚悟を述べられます。

御文の後半部分では、大聖人が譬喩(例え)を用いられ、「法華経は種のごとく、仏はうえてのごとく、衆生は田のごとく」と示されます。

社会の平和や安穏といった、最高の実りを得るには、あらゆる人々を仏にする法華経という「種」を、人々の心の「田」に植えていかなければなりません。別の御文で「法自ずから弘まらず」(御書新版2200ページ・御書全集856ページ)と仰せのように、種は勝手に田へ植えられるはずもなく、「植え手」の存在が不可欠です。

ここで、大聖人が農家・稲作の例えを用いた理由を考えてみたいと思います。

当時の農業は現代にもまして、天候や自然災害などの不確実な要素の影響が大きい大変なものであったと考えられます。

雨が降らずに生育が進まない、作物が病気になってしまったり、害虫の被害にあったりして作物が全滅……といったことも珍しくなかったことでしょう。(村を開拓する某テレビ番組が頭に浮かんだあなたは私と同世代!)

しかし、それでも実りを得るために、植え手は再び種を手に、田へ向かうのです。あきらめてしまうようなことが続き、心が折れそうになっても、「懲りずに」植え手は種を蒔き続ける。

大聖人は、この不退の姿を、法を弘める自らの姿と重ね合わせていたと拝察されます。また、弟子たちに、師匠と同じように法を弘める主体者の意識を持たせようとされたとも捉えられます。

何か事を成そうとするならば、どのような壁が立ち塞がろうとも、自らが主体的に行動を続けなければならない。当たり前のように聞こえますが、なかなか実行することができないことだと思います。

必ず朝が来ると信じる

話は戻りまして、私が職場で担当した小さなプロジェクト。あきらめるのは簡単ですが、自分の責任で最後までやり遂げようと思い直しました。

チームの皆と励ましあい、上司からの助言を素直に受け止め、内容をブラッシュアップしつつ、ついにプロジェクトが形になりました。

多少の困難があっても、腐らず、挫けず、正面から取り組んで良かったなと思う出来事でした。

池田先生は語りました。
「朝の来ない夜はない。必ず朝が来ると信じるのが、この仏法です。大切なのは、やめないこと。諦めないこと。常に何か行動していくことです。挑戦していく限り、必ず前進していける。戦っていること自体が勝利です。負けないことが勝つことなのです」(「大白蓮華」2015年4月号)

私の周りにも、「いまだこりず候」という生き方を貫いている人が大勢います。人生の苦難に向き合い、それを越えてきたドラマをたくさん見聞きしてきました。

悩みのない人生などなく、誰もが何かしらの困難を抱えて生きていると思います。だからこそ、「何があってもあきらめない」という姿勢は、誰かに希望を届ける生き方になっていくのではないでしょうか。

御書のページ数は、創価学会発行の『日蓮大聖人御書全集 新版』(御書新版)、『日蓮大聖人御書全集』(御書全集)のものです。

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