悠然とした心 2022年10月度座談会拝読御書「佐渡御書」

創価学会では、毎月、全国各地で座談会という集いを開き、鎌倉時代の日蓮大聖人(1222年~1282年)が書き残された「御書」(論文や手紙など)を学び合います。機関誌の「大白蓮華」や「聖教新聞」には、その月に学ぶ「座談会拝読御書」を解説する記事が掲載されていますので、ここでは、信仰を持っていない方々にも理解しやすい視点から、青年部員が御書の内容を解説します。

10月度担当のサツキです(訳あって2カ月連続!)。

今回は「佐渡御書」の一節を学ぶのですが、「信仰を持っていない方々にも理解しやすい視点」という企画趣旨からすると、とても難しい御書です…(いま、懸命にハードルを下げています…)。

なぜかと言いますと、生涯をかけて南無妙法蓮華経を弘められた日蓮大聖人が、命にも及ぶ過酷な環境の中で記された、並々ならない気迫と信仰上の確信がほとばしる御書だからです。

それを踏まえた上で、今回は、逆境を見下ろす仏の境涯の強さを学びたいと思います。

拝読御書について

「佐渡御書」は、1272年(文永9年)3月20日、日蓮大聖人が51歳の時に、流罪地の佐渡(注1)から門下一同に与えられたお手紙です。前年の竜の口の法難(注2)以降、大聖人だけでなく門下にも迫害が及び、投獄や所領没収に遭う弟子たちもいました。

(注1)佐渡流罪
日蓮大聖人が1271年(文永8年)、竜の口の法難の後、不当に佐渡へ流刑された法難。約2年5カ月に及ぶ佐渡滞在中、衣食住も満足ではなく、敵対する念仏者らにも命を狙われるという過酷な環境に置かれた。「開目抄」や「観心本尊抄」など数多くの重要な御書を著され、門下たちに励ましの書簡を多数送られている。
(注2)竜の口の法難
1271年(文永8年)9月12日の深夜、日蓮大聖人が斬首の危機に遭われたこと。幕府の軍勢が大聖人を捕縛し、竜の口の付近で斬首を試みるも、突如、光り物が出現したとされ、処刑の試みは失敗した。

佐渡流罪の間には、二月騒動(北条一族の内乱)が起き、日蓮大聖人が「立正安国論」(注3)で予言された「自界叛逆難(内乱)」が的中します。それを受けて記されたのが「佐渡御書」です。

(注3)立正安国論
1260年(文応元年)7月16日、日蓮大聖人が39歳の時、鎌倉幕府の実質的な最高権力者である北条時頼に提出された国主諫暁の書。飢饉・疫病・災害などの根本原因は謗法であると明かし、正法に帰依しなければ、経典に説かれる三災七難のうち、残る「自界叛逆難(内乱)」と「他国侵逼難(外国からの侵略)」が起こると予言。しかし幕府はこの諫言を用いることはなかった。二難はそれぞれ1272年(文永9年)の二月騒動(北条一族の内乱)、1274年(文永11年)と1281年(弘安4年)の蒙古襲来として現実のものとなった。

この御書では、人間にとって無上の宝である生命を仏法に捧げれば、必ず仏になるのであり、その実践は時代によって異なることを示されています。その中でも、今の末法(注4)時代における実践として述べられたのが、今回の拝読箇所です。

(注4)末法
仏の滅後、その教えの功力が消滅する時期をいう。

弱者を脅して強者を恐れる

本文

畜生の心は、弱きをおどし、強きをおそる。当世の学者等は畜生のごとし。智者の弱きをあなずり、王法の邪をおそる。諛臣と申すはこれなり。強敵を伏して始めて力士をしる。

(御書新版1285ページ16行目~・御書全集957ページ7行目~)

意味

畜生の心は、弱い者を脅し、強い者を恐れる。今の世の僧たちは、畜生のようなものである。智者の立場が弱いことを侮り、王の邪悪な力を恐れている。こびへつらう臣下とは、このような者をいうのである。強敵を倒して、はじめて、力ある者であるとわかる。

語句の説明

・「畜生」
飼い養われている生き物の意で、動物を総称した語。人間の行動としては、理性を失って倫理・道徳をわきまえず、本能的欲望のままに動ていく状態をいう。
・「智者」
物事の道理をわきまえた、智慧のある人。
・「王法」
王の施す法令や政治・社会制度、または国家そのものをさす。主に仏法との対概念として用いられる。
・「諛臣」
こびへつらう家臣・臣下のこと。

佐渡流罪などの大聖人に対する迫害は、幕府の権力者のみによるものではなく、大聖人に敵対する諸宗の僧たちが結託したものでした。その様相を指摘されているのが、この御文です。

「当世の学者等」や「諛臣」とは、迫害している側の僧たちのことです。大聖人はそれらの人々の心を「畜生の心」と指摘されています。その特徴は、強い者(王、権力者を指す)に対しては恐れるものの、弱い者(智者、大聖人を指す)に対しては脅してくるというものです。

師子王の心を持つ人が仏に 

本文

悪王の正法を破るに、邪法の僧等が方人をなして智者を失わん時は、師子王のごとくなる心をもてる者、必ず仏になるべし。例せば日蓮がごとし。これおごれるにはあらず。正法を惜しむ心の強盛なるべし。

(御書新版1286ページ1行目~・御書全集957ページ8行目~)

意味

悪王が正法を破ろうとし、邪法の僧らがその味方をして、智者をなきものにしようとする時は、師子王の心を持つ者が必ず仏になるのである。例を挙げれば、日蓮である。これはおごりによるものではない。正法を惜しむ心が強盛だからである。

語句の説明

・「方人」
味方、仲間のこと。

続きの御文も、大聖人に対する迫害の構図が示されています。権力者と僧らが結託して、智慧のある人をなきものにしようとする時、「師子王の心」、つまり百獣の王ライオンのように勇敢な強い心を持つ人は必ず仏になる(成仏する)ことを示されています。この師子王の心とは、仏の境涯(仏界)と捉えることもできるかと思います。

もちろん、智者、師子王の心を持つ人というのは、大聖人を指しています。また、これらのことは、傲りによって言っているのではなく、正しい教えを心から大切に思うからこそ訴えているのである、と明らかにされています。

先に挙げた御文と合わせると、僧などの迫害する側が「畜生の心」、それと勇敢に戦っている大聖人が「師子王の心」という対比になっています。これを仏法が説く十界(注5)に当てはめてみると、畜生界VS仏界と捉えることもできるでしょう。

(注5)十界
衆生の住む世界・境涯を10種に分類したもの。仏法の生命論では人間の生命の状態の分類に用いる。地獄界、餓鬼界、畜生界、修羅界、人界、天界、声聞界、縁覚界、菩薩界、仏界。

三番目に低い畜生界は、理性や良心を忘れ、自分が生きるためには他者をも害するような境涯と言えます。一方、仏界は仏の覚りの境涯であり、広大で福徳豊かな最高の境地です。畜生界と仏界との間には雲泥の差があります。ですので、大聖人は、権力者や僧らが結託した迫害に立ち向かわれながらも、境涯としては悠々と見下ろされていたと言えるのではないでしょうか。

池田先生は「大聖人は『師子王の心を取り出せ!』と呼びかけられています。ここに仏法の真骨頂ともいうべき重要な観点があります」(『池田大作全集』第33巻「御書の世界」下)と記されています。

何か困難に見舞われた時に、それに立ち向かいながらも、悠然と見下ろす心を持ち続けられれば、その困難に負けずに乗り越えていけるのではないでしょうか。また、そうした困難こそ、自分の境涯を高め、人間として大きく成長していけるチャンスでもあります。その心と力を引き出すのが、南無妙法蓮華経の信仰なのです。

御書のページ数は、創価学会発行の『日蓮大聖人御書全集 新版』(御書新版)、『日蓮大聖人御書全集』(御書全集)のものです。

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