心から絞り出した一言の力強さ 2025年10月度座談会拝読御書「法華初心成仏抄」
創価学会では、毎月、全国各地で座談会という集いを開き、鎌倉時代の日蓮大聖人(1222年~1282年)が書き残された「御書」(論文や手紙など)を学び合います。機関誌の「大白蓮華」や「聖教新聞」には、その月に学ぶ「座談会拝読御書」を解説する記事が掲載されていますので、ここでは、信仰を持っていない方々にも理解しやすい視点から、青年部員が御書の内容を解説します。
私は広く浅くいろんなものを好きになるタイプなのですが、その中の一つに、ラップバトルがあります。
ラッパーが1対1で対戦し、音楽に合わせてターン制で交互にラップを披露し、技術や主張をぶつけ合いながら勝敗を競います。
時には過激な言葉が出ることもありますが、心掴まれる瞬間がたくさんあるんです。
タイミングよく放たれるフレーズ。
長文で、かつ意味も通して踏まれる韻。
いろんな名場面の中で私は特に、相手の主張に返答しつつ、自分の思いや決意をこめたフレーズで、観衆を沸き立たせる瞬間が一番好きです。
即興で放たれているのに「いろんなバックボーンがあるこの人じゃないとこの言葉は言えないだろうな」って感じさせるものはたくさんあって。
まさに「心から絞り出した一言の力強さ」を感じさせてくれます。
今回の「法華初心成仏抄」の拝読箇所からも、私は言葉の力を強く感じました。一緒に学んでいきましょう。
拝読御書について
法華初心成仏抄は1277年(建治3年)に、日蓮大聖人が56歳の時に執筆されたとされていますが、誰に対して送られたのかも含め、詳細は明らかになっていません。
全体を通して「問うて云わく、……」「答えて云わく、……」というように質問と回答の問答形式で進められています。
さまざまな宗教の正邪について説明したうえで、法華経こそが仏の本意を明かした最も優れている経典であり、仏の教えの中の論争が絶えず、正しい教えが見失われてしまう時代(末法)においては、法華経の肝心である「南無妙法蓮華経」こそ、弘めるべき成仏のための道であることが説かれています。
しかし、この教えを弘める中でそれを邪魔する「三類の強敵」(注)が出現し、迫害にあうことが明かされます。ですが、それも法華経の中で明かされている通りです。大聖人は、信仰を貫き通してこれらを打ち破ることで、自身の幸福を開くことができると教えられています。
(注)釈尊の滅後の悪世に法華経を弘通する者に迫害を加える人々。
一方、問答の中で話題にされているのが、「宗教に対して無智な人・法華経に対して反発する心がある人にも、法華経を説いていくべきなのか」という点です。
この問いに対して示された回答が、今月拝読する御文となっています。
縁した人を幸福に導く
本文
とてもかくても法華経を強いて説き聞かすべし。信ぜん人は仏になるべし。謗ぜん者は毒鼓の縁となって仏になるべきなり。いかにとしても、仏の種は法華経より外になきなり。
(御書新版697㌻14行目~16行目・御書全集552㌻14行目~16行目)
意味
とにもかくにも法華経を強いて説き聞かせるべきである。信じる人は仏になる。謗る者は毒鼓の縁となって仏になるのである。どちらにしても、仏になる種は法華経より他にないのである。
大聖人は、宗教に対する理解の有無、抵抗の有無を問わず、法華経を説き聞かせていくべきであると仰せです。
「強いて」と聞くと「むりやりにでも」という意味にもとらえられますが、ここでは「あえて」という意味です。
つまり、相手の反応がどうであれ、目の前の人を幸せにするために堂々と語っていくことが重要であると教えられているのです。
法華経の話を聞いて、「信じる人は仏にな」りますが、「謗る者」、誹謗・反対する人は「毒鼓の縁となって仏になる」と説かれています。
「毒鼓の縁」とは涅槃経という経典に出てくる譬えのこと。
「毒鼓」は毒を塗った太鼓のことで、音を鳴らせば、たとえ聞くつもりはなくとも、その音を耳にした者は毒に当たって命を失うと説かれています。
非常に物騒な話に聞こえますが、「命を失う」というのは「煩悩が消滅する」ことを譬えています。
つまり、法華経の話を信じる・信じない、好む・好まないにかかわらず、話を聞いた人は必ず成仏するのだということが説かれているのです。
話を聞いた人に幸福の因を必ず植えることができる――、そのような力があるのが法華経の偉大さであると説かれているのです。
強い言葉の裏側
創価学会の信仰では「すべての人に無限の可能性が秘められている」と教えています。
欠点や短所を気にしてしまう人、自身の境遇を嘆く人……。どんな人であっても前を向き幸福を切り開いていけるのがこの信仰なのです。
だからこそ創価学会員は常に、他者を励ますことに力を注いでいます。
悩んでいる人には、その人に秘められている無限の可能性を伝え、共に前に進もうと呼びかける――。時には、相手の可能性を信じるからこそ、相手にとって耳の痛いことを伝えることもあります。
私たち学会員が励ましの模範としているのが、さまざまな門下を励ましてこられた日蓮大聖人です。
法華初心成仏抄が著された鎌倉時代。当時、仏法を弘めようとする大聖人やその門下は、態度や言葉で反発を受けるだけでなく、投獄や追放、所領没収などの弾圧も受けています。
「幸福になれる」と話しているのに危害を加えられる。
その心理的苦痛は、想像を絶するものだと思います。
先述の通り、「この信仰を深めると妨げをするはたらきが襲い掛かってくる」と説かれていますが、「乗り越えられる」と頭で理解していたとしても、信仰を捨ててしまいかねないほどだったのではないでしょうか。
でも日蓮大聖人は弟子たちに、絶対負けてほしくなかった。
なんとしても、幸福への道を諦めさせたくなかった。
だからこそ、反発を受けることを前提とした「毒鼓の縁」という表現をあえて用いられたのではないか。
「自身の可能性を諦めてしまう」「来世への逃避を促し、今世を諦めさせようとする」、そんな刹那的な思想を「毒の音をもって打ち破っていこう」、そう呼びかける思いで綴られたのではないか、私はそう感じました。
強い言葉の裏にある、日蓮大聖人の強い決意と励ましの心が伝わってくる、そんな御文だと感じました。
反発を招くほどの言葉だからこそ、変えられる心がある。
そんなことを実感した経験があります。
私はかつてとてもお世話になっていた先輩から「君には慈悲が足りていない」とよく言われていました。
もともと人の役に立ちたいと思う性分だったので、その先輩の言葉にはだいぶムッとしました。
しかし、人間関係でうまくいかない経験を重ねた末に、一つの気づきに辿り着きます。
「自分のエゴばかりだった。先輩の言うとおりだった」と。
そのことを自覚して以降、より友人や先輩・後輩のことを祈るようになり、さらに多くの人の力になることができました。
先輩が私に反発されることも覚悟のうえで、あきらめずに信じて励まし続けてくれたからこそ、変われたのだと思います。
友人関係などでも、“これは注意してあげたほうがいいかも”と思うことはあります。相手のためだと思っても、その人から反発をうけそうな話をするのは、やっぱり気が引けます。
池田先生はこのように教えてくださっています。
たとえば、この人を絶対に救いたいと思えば、どうして通り一遍の対応ですまされようか! (中略)
祈りも具体的になる。相手の悩みは何なのか、どう話せば一番心に響くのか。悩んでは祈り、祈っては悩み、知恵を絞りに絞るだろう。(2003年10月6日付「聖教新聞」「随筆 新・人間革命」)
言葉の裏側に何があるのかが大事なんだと思います。伝えるも伝えないも、結局は自分次第。語るべき時に語るべきことを、勇気を出して語っていける自分でありたいと思います。
御書のページ数は、創価学会発行の『日蓮大聖人御書全集 新版』(御書新版)、『日蓮大聖人御書全集』(御書全集)のものです。
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