誰かのために「今」を精いっぱい生きる 2026年4月度座談会拝読御書「持妙法華問答抄」

東日本大震災から本年で15年を迎えました。
5年前に、自分の目で、肌で被災地のことを知りたいと思い、岩手・宮城・福島へと行きました。

海岸沿いはもちろんのことながら、海から離れた場所にある街の建物に2~3階ほどの高さの津波到達点が標されていました。驚愕しました。気仙沼市東日本大震災遺構・伝承館では、展示内容だけでなく、伝承館から海まで広く開けた場所に家やビルなどの建物、街があったことに鳥肌が立ち、涙が出ました。福島県の高速道路には放射能数値を示す案内板がありました。

自分の無力さを実感しつつ、誰か困っている人のためにできることを自分のできる範囲でしていこうと誓ったことを今でも思い出します。あれから無我夢中で日々を生きてきました。子どもも誕生し、次の世代にどんな社会を残したいのかを考えながら、誰かのために生きることの尊さを自分の生き方で示していきたいです。

さて、今月の拝読御書は「持妙法華問答抄」です。人に尽くす行動が自身を輝かせる黄金の歴史になることを学んでいきたいと思います。

拝読御書について

本抄は、1263年(弘長3年)、日蓮大聖人が42歳のとき、伊豆流罪から鎌倉に戻られた直後に著されたものとされていますが、詳細は定かではありません。「持妙法華」と題号にある通り、「妙法蓮華経」を「持つ」意義について、五つの問答形式で教えられています。

第1の問答では、人間として生を受けることはまれであって、仏法を聞くことはさらに難しい中で、人として生まれ、仏法を聞くことができた千載一遇の機会に、必ず幸福になれる教えは何か、という重要な問いから説き起こされます。

続く第4の問答までは、法華経が諸経典の中で、最も優れた教えであり、「仏になる実の道」(御書新版511㌻・御書全集462㌻)が説かれていると示され、さらに、法華経は、それ以外の経典で成仏が許されなかった二乗(声聞、縁覚)をも救うことで、全ての人を成仏させる教えであることを明かされています。

第5の問答では、法華経を修行する上で、「信じること」が重要であると結論されます。また法華経が最も優れているゆえに、法華経を持つ人も第一であり、その人を謗ることは法華経自体を謗ることになり、慎むべきであると強調されます。

さらに、人生は無常であり、この短い一生において、世間的な評価や環境に翻弄されること、目先の利益ばかりに執着することのむなしさを指摘されています。私たちは、つい他者からの評価を「幸せの物差し」にしてしまいがちですが、大聖人は、そのような自分勝手な執着を乗り越え、どこまでも妙法を持ち抜く生き方の中にこそ、真の充足があることを教えられています。

最後に、法華経の題目を自らも唱え、人にも勧めていくことこそ、人間として生まれてきた、この一生の思い出となることを示されて、本抄を結ばれています。

自分のためと他者のためと

本文

寂光の都ならずば、いずくも皆苦なるべし。本覚の栖を離れて、何事か楽しみなるべき。願わくは、「現世安穏、後生善処」の妙法を持つのみこそ、ただ今生の名聞、後世の弄引なるべけれ。すべからく、心を一にして南無妙法蓮華経と我も唱え他をも勧めんのみこそ、今生人界の思い出なるべき。

(御書新版519㌻2行目~6行目・御書全集467㌻16行目~18行目)

意味

久遠の仏の住む永遠の仏国土でないなら、どこであっても皆、苦しみの世界である。生命本来の仏の覚りの境地を離れて、何が楽しみとなるだろうか。願わくは、(法華経薬草喩品第5に)「現世は安穏であり、来世には善い所に生まれる」と仰せの妙法を持つこと、それのみが、今世の真の名誉であり、来世の導きとなるのである。ともかく、全精魂を傾けて、南無妙法蓮華経と自身も唱え、他の人にも勧めることこそが、人間として生まれてきたこの一生の思い出となるのである。

語句の説明

・「寂光の都」(じゃっこうのみやこ)
久遠の仏の住む永遠の仏国土。法華経如来寿量品第16では、この現実世界が久遠の仏の永遠の仏国土であり、妙法への強盛な信によって、その真実を覚知し、功徳を享受できると明かしている。

・「本覚の栖」(ほんがくのすみか)
久遠の仏の本来の覚りの境地。あらゆる生命に本来そなわる仏の覚りの境地でもある。

拝読御文の冒頭にある「寂光(じゃっこう)の都」や「本覚(ほんがく)の栖(すみか)」とは、私たちが目指すべき“仏の境涯(何ものにも侵されない幸福な境地)”のことです。幸福をどこか遠くに探すのではなく、自らの胸中に揺るぎない充足感を得ることこそが、人生の真の楽しみであると教えられています 。

続く「現世安穏(げんぜあんのん)、後生善処(ごしょうぜんしょ)」とは、妙法を持つことで、今を生きる現在も、そして未来までも、確かな安心に包まれた“勝利の人生”を歩めるという大功徳が説かれています。日蓮大聖人の仏法は、どんな苦難も乗り越えていける力強い生命が、誰の胸中にも備わっていると教えています。何があっても揺らぐことのない「絶対的幸福境涯」を確立していく生き方自体が、一生の最高の名誉となり、安楽な来世への導きとなるのです 。

妙法を「持つ」とは、単に形式的に信じることではありません。大切なのは「心を一(いつ)にして」とある通り、心を一つに定め、自他共の可能性を信じ抜く「自行化他(じぎょうけた)」の実践です 。

「自行」とは祈りを通して自分自身の生命を磨き鍛えることであり、「化他」とは他者の幸せを願って、誰もが仏の境涯を開けることを伝えていくことであり、他者に尽くしていく行動です。これらは、いわば“車の両輪”のようなものです。両方の実践があってこそ、本当の意味で法を「持っている」といえるのです 。

やむにやまれぬ思いを抱えて

現実の生活に目を向ければ日々の忙しさや自分の悩みに心を乱され、社会に目を転じれば国や世界情勢の変化などに心を痛める――その中で、自分一人が動いても何も変わらないという無力感に心をバラバラにされてしまいがちです。

しかし、それでも、私たちには「目の前の人に幸せになってほしい」と願う、人間の善性を本来的に持っているはずです。「この人に幸せになってほしい」――この一点に「心が一(ひとつ)」になり、どんなに小さいと思えるようなことであっても、自分にできる取り組みに全力を尽くせるのです。

東日本大震災が発災した直後、自身も甚大な被害を受けながらも、やむにやまれぬ思いで泥まみれの道を友のもとへひた走った東北の方々がいました。目の前の現実に「自分一人の力ではどうしようもない」という無力感に襲われながらも、「あの人を励まさずにはいられない」という一点に心が定まったとき、絶望を打ち破る勇気が湧き上がったといいます。

「心を一にして南無妙法蓮華経と我も唱え他をも勧めん」と仰せの通りに、誰に褒められなくとも人知れず友の幸福を祈り、友の可能性を信じ、誠実に語る。一見、地味で孤独な行いに見えるかもしれません。しかし、東北の方々がそうであったように、「行かずにはいられない」という、やむにやまれぬ思いに突き動かされた行動の中にこそ、大聖人が教えられている「本覚の栖(仏の覚りの境地)」があるのです。希望ある未来へと進んでいけるのです。

私が誰かのために生きる人生を送りたいと願い、日頃の行動の原動力としている池田先生の言葉があります。

この世に生まれて、いったい、何人の人を幸福にしたか。何人の人に「あなたのおかげで私は救われた」と言われる貢献ができたか。
人生、最後に残るのは、最後の生命を飾るのは、それではないだろうか。(普及版『法華経の智慧』[下])

自身の良心に従い、「今」という時を精いっぱい自分なりに生きていく。その日々の行動の積み重ねこそが、生命に永遠に刻まれる「最高に輝く思い出」になると、私は信じています。

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