「尊重」と「手放し」――エゴを破る利他の生き方 2026年7月度座談会拝読御書「四条金吾殿御返事(世雄御書)」
創価学会では、毎月、全国各地で座談会という集いを開き、鎌倉時代の日蓮大聖人(1222年~1282年)が書き残された「御書」(論文や手紙など)を学び合います。機関誌の「大白蓮華」や「聖教新聞」には、その月に学ぶ「座談会拝読御書」を解説する記事が掲載されていますので、ここでは、信仰を持っていない方々にも理解しやすい視点から、青年部員が御書の内容を解説します。
ふとしたきっかけで、長いあいだ会っていなかった人と再会したことはありますか?
先日、小学校の時の担任の先生に、およそ25年ぶりにお会いする機会がありました。
さすがに久しぶりすぎて、もう自分の顔など忘れられているのではと不安もよぎりましたが、なんと先生は当時のことをよく覚えていてくれました。
持病があった自分が社会人として元気に働いていること、結婚して子どもができたことなどを報告できた喜びとともに、一人の教え子を長く記憶に留めてくれている教師という存在に、深く感動しました。
思えば、先生のクラスだったのはわずか1年間。人生の中では短い期間です。
しかしそのわずかな期間で心に残った思い出があるのも、先生の児童への思いがあったればこそなのだろうと感謝は尽きません。
今月学ぶ「四条金吾殿御返事(世雄御書)」にも、弟子の安全と幸福を深く願う、師の愛情と期待が綴られています。
拝読御書について
本抄は1277年(建治3年)の7月か8月、日蓮大聖人が56歳の時に身延(山梨県)で著され、鎌倉の四条金吾という門下に送られたお手紙です。
金吾は武芸や医術に優れた武士で、主君の江間氏から厚い信頼を受けていましたが、主君に法華経を勧めたことで疎まれるようになります。さらに、桑ケ谷問答(注)を巡るデマから、信仰を捨てる起請文(誓約書)を書かなければ所領を没収され、家臣から追放されるという苦境に立たされました。
(注)桑ケ谷問答[くわがやつもんどう]
1277年(建治3年)に鎌倉の桑ケ谷で行われた、日蓮大聖人の弟子・三位房と、極楽寺良観(忍性)の庇護を受けていた竜象房との問答。竜象房は、三位房に徹底的に破折された。四条金吾は同席しただけで一言も発していなかった。しかし、四条金吾が徒党を組み、武器をもって法座に乱入したとの讒言が四条金吾の主君・江間氏の耳に入り、これがきっかけで主君の怒りを買って厳しい処分にさらされることとなった。
金吾は、起請文は書きませんと大聖人に伝えます。本抄はその後の状況の変化などの報告への御返事と考えられます。
お手紙の中で大聖人は、仏法は勝負であり、仏とは世の中で雄々しく一切の煩悩に打ち勝つ人、世雄であると仰せになります。
続いて、日本における仏教伝来の経緯をたどり、仏法を用いて善政を行えば栄え、逆に背けば滅んでいった史実を記し、仏法を持ち続けることを忘れてしまえば同様に滅んでしまうと戒められます。
その上で、金吾が決意しているように、信仰を捨ててはならないと確認し、信心を貫き通すことによって勝利していけると励まされ、以下の御文につながります。
弟子への深い慈愛
本文
日蓮は少きより今生のいのりなし。ただ仏にならんとおもうばかりなり。されども、殿の御事をば、ひまなく法華経・釈迦仏・日天に申すなり。その故は、法華経の命を継ぐ人なればと思うなり。
(御書新版1590㌻14行目~15行目・御書全集1169㌻8行目~9行目)
意味
日蓮は若い時から今生の栄えを祈ったことはない。ただ仏になろうと思い願うだけである。しかし、あなた(四条金吾)のことは、絶えず法華経・釈迦仏・日天子に祈っているのである。それは、あなたが法華経の命を継ぐ人だと思うからである。
大聖人は若い頃から御自身の現世での栄誉栄達を祈ったことはなく、ただ仏の境涯を開くことを願ってこられたと仰せです。それは、全ての民衆を救おうという誓いに貫かれたものでした。
一方で、弟子の四条金吾のことは祈っていると伝えられ、それはあなたが法華経の命を継ぐ人であると思っているからだと、温かな励ましを送られるのです。
万人救済という大聖人の誓願を継ぐ金吾が、その故に苦難に直面する状況にあって、自身のことは差し置いて金吾のことを祈っていると伝える。その言葉に、金吾を幸福にせずにはおかないという、大聖人の強い意志と弟子への深い慈愛を感じます。
その後、金吾は宣言通り信仰を守りつつ、しかも誠実に主君に仕え、ついにはその信頼を取り戻します。そして新たな領地を受けるという大きな成功に繋がっていくのです。
師匠と弟子という点で言えば、次元は異なりますが、私の担任の先生も児童の可能性を信じ、何かと挑戦を応援してくれる人でした。
私が囲碁に興味を持っていると聞けば(当時は某ジャンプ漫画が人気でした)、放課後に囲碁を打てる人を呼んで囲碁に触れる機会を作ってくれたり、私の中学受験も応援してくれ、必要な書類等を親身に書いてくれたりしました。
児童のために何かできることはないかと考え、自然と体が動いてしまうような、思いやりに満ちた先生だったのです。
だからこそ、マイペースで本の虫だった私も、児童に対する先生のそうした愛情を意気に感じていました。例えば、クラスで誰も手を挙げない役目があれば、少しでも先生の役に立って恩返しをしようと思って名乗り出る。そんな小さな主体性も生まれました。
この人は自分の選択を尊重してくれる人だという信頼感があったからこそだと、今では思います。
エゴの殻を破って
哲学者のカントの『道徳哲学』には、人間が追求すべきあり方について、“自分自身に対して求めるべきものは自己の完成であり、他者に対して求めるべきものはその人の幸福である”という趣旨の言葉が記されています。
現代の私たちは、ついこの方向性を逆にしてしまいがちです。
他者に対して、もっとこうあるべきだ、なぜ完璧にできないのかと成果を求めてイライラしてしまったり、自分の幸せを求めるあまり利己的になってしまったりすることがあります。
自分だけ良ければいいと考えるのではなく、他者を自分の思い通りにしようとするのでもなく、他者を尊重しながら、手放しでその幸福を願い、行動する。「利己」ではない「利他」の精神が仏法にはあります。
さらに、自分を含めて皆で一緒に幸福になっていく。もっと言えば、自分が幸福であることと、社会全体が幸福であることとは地続きであるという考え方に基づいて、行動することが菩薩の振る舞いであるとされます。
エゴという自分の殻を破り、他者のために行動を起こす時に自分自身の人間としての器が大きく広がっていく。
その器が広がるほどに世間の大波をさざなみとして受け止め、力強く悠々と生きていく、そんな生き方ができるのではないかと思います。
創価学会第3代会長の池田先生は、次のように綴っています。
人間性の光彩とは、利他の行動の輝きにある。
人間は、友のため、人びとのために生きようとすることによって、初めて人間たりうるといっても過言ではない。
そして、そこに、小さなエゴの殻を破り、自身の境涯を大きく広げ、磨き高めてゆく道がある。(小説『新・人間革命』第1巻「錦秋」)
目の前の一人を尊重して心を寄せ、その人と関わるのがたとえ人生のひと時であっても、手放しでその幸福を願って向き合う。その繰り返しが、自分の幸福の器を広げていってくれるのではないでしょうか。
私も、尊敬する大人たちから受け取った関わりのバトンを、今度は親として、社会の一員として、次代を担う人たちの人生の土台作りを応援して繋いでいきたいと思います。
御書のページ数は、創価学会発行の『日蓮大聖人御書全集 新版』(御書新版)、『日蓮大聖人御書全集』(御書全集)のものです。
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