社会の諸課題と私たちが感じる〝無理ゲー感〟

自分一人に、いったい何ができるのか。
新聞を開けば経済の低迷が騒がれ、ネットニュースでは気候変動が論じられ、テレビでは次々に増える新しいハラスメントが取り上げられている……。
〝どうにかしなきゃ〟と思う瞬間には、また新たな問題が表面化しては名前が付いていく。さまざまなツールで手軽に情報を得られる一方、同時多発的にあふれかえるその量に、時々、疲労感さえ覚える。要するに、解決すべき問題が多すぎるという〝問題〟が起きているともいえる。
人類が共通の課題意識に立ち、取り組んでいくためのガイドラインは数多く示されている。だがあまりにも膨大な数の〝敵(問題)〟に立ち向かえるのかという、八方塞がりな〝無理ゲー(難しすぎてクリアできないゲーム)感〟が、それらと向き合う気力を削いでいるとも思えるのだ。

「当事者ではないから」という分断

こうした閉塞感を助長する要素の一つに、〝その問題の当事者であるか〟という見えない基準が挙げられる。
例えば、差別や病気だ。
〝実際に悩んだ者にしかその苦しみは分からない〟〝知識がないなら語る資格もない〟。一個人を取り巻く環境や近接度で、その課題と関わわれるか否かが他者によって判断される場合や、そう自ら線引きをしてしまうことがある。
そこには〝差別に遭ったことがある人とない人〟〝病気を経験したことがある人とない人〟といった分断が、すでに起きているとはいえないだろうか。
2022年3月。東日本大震災の被災地・福島県を取材した。インタビューを行ったのは、福島第一原発の爆発事故がもとで避難生活を送った、創価学会員の方々だった。
私は、福島にほとんどゆかりがない。震災当時、東京の高校に通っていた私は、それまで感じたことのない大きな揺れにこそ遭ったものの、住んでいた町を追われるような経験もしていなければ、家族を失うこともなかった。
快く取材を受けてくださった当事者に質問を投げかけながらも、〝自分なんかが取材していて良いのだろうか〟という戸惑いが、常に付いて回った。

悩むという立場を共有する

だが、ある避難当事者の言葉にハッとした。

「何も言えなくたって、横におって一緒に苦しむことはできるじゃないですか」

たとえ当事者同士であっても、汲み取りきれない感情があることを、その方は赤裸々に教えてくれた。同時に〝当事者ではないから〟と、まるで別世界の出来事のように福島原発の問題を捉えていたことに、私自身が気付かされた。
同じ経験がなくても、知識がなくても、友人としてそばにいることはできる。
社会の諸課題と向き合うといっても、その一歩目は、人として人の中でコミュニケーションを図っていくことなのだと学んだ。
日蓮仏法には、他者の苦しみを自身の苦しみとして受け入れることを指す「同苦」の哲学がある。池田大作先生は、このような言葉をつづっている。

「相手に同情する──あわれむ──ということではなくて、『わかってあげる』ということです。『理解』することです。人間は、自分のことを『わかってくれている人がいる』、それだけで生きる力がわいてくるものです」

悩みを共有することは、一朝一夕に事態が変化しなかったとしても、相手の悩んでいるという事実を受け止め、立ち上がれるようになるまでの時間そのものを共有することにあるのかもしれない。「危機の時代」と呼ばれるタイムライン(時間軸)に生きる当事者の一人として、今と向き合う人々の声を聞き、届けていきたい。

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