「日常」を充実させる根っこ 2026年9月度座談会拝読御書「減劫御書」

2026年も夏が終わり、9月になりました。
まだまだ暑い日もありますが、朝夕には少しずつ秋の気配を感じるようになってきましたね。

夏休みが終わって学校が始まったり、職場の雰囲気も日常に戻ったり、9月は、何となく「普段の生活」に戻っていく月のような気がします。

ただふと思うと、私たちの毎日は、仕事をしたり、学校に通ったり、家族と過ごしたり、友人と話したり――そんな何気ない日常の積み重ねです。

創価学会には「信心即生活」「仏法即社会」という法理があります。

どこまでも日々の生活や現実社会の中で、仏法の智慧や学びを発揮していくことが大事だという考え方です。

今回の「減劫御書」で、そんな「日常」の中にこそ私たちの活躍の舞台があるということを学んでいきたいと思います。

拝読御書について

「減劫御書」は、1275年(建治元年)末または1276年(同2年)、日蓮大聖人が身延で著され、駿河国(現在の静岡県中央部)の門下・高橋六郎兵衛入道の没後、その縁者に送られたものと考えられています。

「減劫」とは、人々の内にある「貪り・瞋(いか)り・愚か」の三毒という心の悪い傾向が強くなり、それによって人々の生命力が衰えていく時代を指します。

当時は、1274年(文永11年)に続き再び蒙古(モンゴル帝国)が攻めてくるのではないかという不安が国中に広がり、幕府は各宗派に調伏を祈禱するよう命じていました。支配者も権力者も民衆も三毒が強まり、動揺するさまは、まさに亡国の姿そのものでした。

大聖人は、人々の心の悪が深まるほど、それを乗り越えるためには、より優れた教えが必要になると示されます。

 

そして、真の「智者」とは、世間から離れて仏法を実践する人ではなく、現実の社会で何が起きているのかをよく理解し、その中で人々を救っていける人であると説かれます。

その上で、社会の中で人々を救うために行動してこられた智者としての御自身の歩みを示し、さらに「大悪は大善の来るべき瑞相なり」と、蒙古襲来などの大きな災いの中にも、やがて大きな善が現れる兆しがあると断言されます。

最後に、亡くなった高橋六郎兵衛入道への思いと、その遺族への温かな心情をつづって、本抄を結ばれています。

仏法の智慧を現実の中で生かす

本文

法華経に云わく「皆実相と相違背せず」等云々。天台これを承けて云わく「一切世間の治生産業は、皆実相と相違背せず」等云々。
智者とは、世間の法より外に仏法を行わず。世間の治世の法を能く能く心えて候を、智者とは申すなり。

(御書新版1968㌻9行目~13行目、御書全集1466㌻13行目~15行目)

意味

法華経には「(法華経を受持し抜いた人が世間のいかなることを説いても)みな実相(仏法)に違背しない」(法師功徳品第19)とある。天台大師はこれを受けて、「一切の日常の生活や社会の営みは、みな実相に違背しない」(法華玄義)と言っている。
 智者とは世間の法から離れて仏法を行ずるのではない。世間において、世を治める法を十分に心得ている人を智者というのである。

御文の冒頭、大聖人は、法華経法師功徳品第19の「皆実相と相違背せず」(法華経549㌻)という言葉を引かれています。そもそも法華経には「宇宙の森羅万象(諸法)は、全て妙法(実相)である」という「諸法実相」という法理があり、ここでいう「実相」とは、全てのものごとの真実の姿を意味します。

さらに天台大師の「一切世間の治生産業は、皆実相と相違背せず」の言葉を引かれます。「治生産業」とは、私たちが日々生活し、仕事をするなど、社会の中で営んでいるさまざまな活動のことです。
つまり、生活や社会の事象は、「皆実相と相違背せず」すなわち、仏法と決して離れたものではないということを確認されます。

そして大聖人は、「智者とは、世間の法より外に仏法を行わず」と言われます。「智者」とは単に知識がある人のことではありません。仏法を実践することは特別だと考え、現実社会から離れて生きるのではなく、社会の中で何が起きているか、何が必要とされているのかをよく理解し、仏法の智慧を生かしていく人を指します。

仕事や生活など、私たちが日々向き合う「世間」「日常」の中でこそ、その智慧を発揮していくことが大切だと、教えてくださっているのです。

信心を根本に、日常を輝かせる

学会活動を始めた頃、さまざまな活動が重なったことで忙しくなり、学会活動を頑張る意義を見失ったことがありました。

悩みを聞いてくれた先輩に「勉強、サークル、バイトなどの私生活と、信仰を横並びに考えてはいけないよ。全ての日常生活の基盤に信仰があるんだ」と教えられたことを今も覚えています。

それから日常生活を輝かせるために信仰があるんだと、本気でお題目をあげるようになりました。勉学やクラブでの成績、人間関係など、祈り、挑戦する中で勝ち取った小さな勝利の積み重ねが、自身の信仰の確信となっている気がします。

また、私の知り合いの男子部員に、マンションの理事長を務めている人がいます。まだ30代と若いのですが、学会活動の中で学んだ「仏法即社会」の精神で、地域のためになるならと引き受けたそうです。

彼は、住民一人ひとりと関係を築き、不満の声にも耳を傾け、対話を重ねました。
長年にわたって放置されていた自転車の問題など、今まで誰も手をつけなかった問題にも迅速に対応し、誠実な行動を続けたところ、住環境は改善され、困ったことがあればお互いに声を掛け合えるような住民同士のつながりも生まれていったのです。

「悩んでいる人の話を聞く、何かあればすぐに動く――。学会活動で学んだことをそのままやっただけなんです。普段やっている学会活動のすごさを改めて認識しました」と彼は言います。

他者への思いやりや信頼を結ぶ対話力など、信仰の実践によって培った智慧や貢献の振る舞いが、仕事や家庭、地域など私たちが生きる現実の中で発揮されていくのです。

池田先生は次のように言われています。


「生活上の事象一つ一つが、そのまま仏法そのものです。仏法の智慧の光は、苦悩渦巻く現実の社会の闇の中でこそ輝き、希望となり、勇気となり、安心となります」(『勝利の経典「御書」に学ぶ』第7巻)

私たちが生きる現実社会は厳しい世界ですが、信仰で培った力を今いる場所で発揮していく「智者」の生き方を少しでも実践していきたいと思います。

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