「信平狂言訴訟」について

学会員から金銭をだまし取るなどし、学会の役職を解任された北海道の元学会員・信平信子が、それを逆恨みして、“池田名誉会長から暴行を受けた” などとデマを騒ぎ立てたものです。そしてこのデマは、政治的にも悪用されました。裁判では、信平側の主張について、多数の客観的な証拠に照らして “すべて事実無根である” と明確に認定。さらに判決は「100万件に1件」と言われる「訴権の濫用で却下」という結論を下しています。
それほど、このデマ騒動が、悪質極まりない謀略であったということです。このデマを掲載した自民党の機関紙も、当然、謝罪コメントを掲載。時の総理大臣も2度にわたって、名誉会長に謝罪しています。

もともと、北海道在住の学会幹部だった信平信子・醇浩夫婦は、学会員から金をだまし取るなど、金銭トラブルを起こし、1992年(平成4年)5月、役職を解任されました。
それを逆恨みした信平夫婦が、週刊誌上に、大々的なデマ手記を掲載したのです。1996年(平成8年)2月には、信平夫婦、「週刊新潮」の記者らが謀議し、同月15日に「週刊新潮」誌上で、事実無根の手記を発表。このデマ手記を使って、白川勝彦元代議士(当時、自民党)らが宗教弾圧の国会質問を行い、6月には、信平夫婦が民事訴訟を起こしたのです。
記事を担当した週刊誌記者は、2年ほど前にも、交通事故の被害者であった創価学会員を殺人犯に仕立てあげた記事を執筆。被害者の学会員が名誉毀損で訴えた裁判では、一審、二審ともにデマ記事を断罪。高裁判決では「取材は予め決められた創価学会批判の方向に沿ってされた」など悪辣な報道姿勢が糾弾され、最高裁で損害賠償金110万円の支払いが確定。前代未聞の人権侵害事件として、司法から厳しい鉄槌が下されました(1998年3月)。

同じように信平手記も、裁判ではそのデマの悪質さが浮き彫りになりました。「事件現場とされた建物が、存在していない」「事件で怪我を負った時の診断書とされるものが全く無関係だった」など、証拠や証言の偽装・偽造が発覚したのです。あらゆる事実の確認をした上で、2000年(平成12年)5月に東京地裁は「訴権の濫用」との判決を下しました。
2001年(平成13年)1月、東京高裁が信平側の控訴を棄却。同年6月には最高裁が上告を棄却し、信平夫婦の完全敗訴が確定しました。

「訴権の濫用」というのは、“だれもが裁判を起こす権利があるが、それを濫用してはいけない” という意味です。
「訴権の濫用」による「却下」は、たんに請求が認められないという「請求棄却」とはまったく意味が異なります。そもそも憲法第32条には、誰にでも権利自由の確保・救済を求めるため、訴訟を起こす権利があることがうたわれています。それをふまえた上で、この裁判では “提訴そのものが不当な目的を持ったもので、訴訟制度の悪用にあたる” と裁判所が判断したからこそ、「却下」となったのです。
「100万件に1件」と言われるほど珍しい判決で、日本の裁判史上に残る悪質なデマ事件として、判例集などにも掲載されています。
東京地裁で下された一審判決には、次のようにあります。
「本件訴えは、訴権を濫用するものとして不適法なものというべきであり、このまま本件の審理を続けることは被告にとって酷であるばかりでなく、かえって原告の不当な企てに裁判所が加担する結果になりかねない」

こうして裁判で真相が明らかになったことで、時の総理大臣が2度も謝罪することにもなりました。
この信平夫婦による狂言訴訟は、裁判史上に残る、極めて悪質なデマ事件なのです。

<参考資料> 信平狂言訴訟について

① 事件現場がない 
信平信子氏は「1983年(昭和58年)8月(当時=56歳)」に「プレハブ建ての喫茶ロアール(創価学会の函館研修道場内)」で、暴行を受けたなどと主張したが、当時の航空写真から、ロアールがすでに撤去されていた事実が発覚。肝心な「事件現場」からしてウソであった。

② “事件”の直後に笑顔? 
信平氏は、数回にわたって暴行を受けたと主張。そのうち「1991年(平成3年)8月16日」の事件(当時=64歳)について、「17日頃」「16日から18日の間」などと証言が二転三転。法廷に、事件直後に笑顔で写っていた写真が提出され、判決でも「被害に遭ったものとは到底思われないにこやかな笑顔」と認定。結局いずれの日時も、事件などなかったことが立証された。 

③ 証拠の捏造が裁判で露見 
事件でケガを負ったとして診断書を提出した信平氏側に対し、診断書を出した医師本人が、その時期に負傷したものではないと証言。信平夫婦が学会本部にかけてきた「恐喝電話」の録音テープについても、信平氏側は某研究所 S 氏の声紋鑑定書を提出し、「テープの声は信子ではない」などと主張。これに対して、学会側は、元・警察庁科学警察研究所副所長の鈴木隆雄氏に依頼し、この鑑定書が「根本的に妥当性を欠く」ことを明らかにした。判決も S 氏の鑑定は「声紋鑑定の手法として妥当であるかどうか基本的な疑問が残る」と断じた。 

④ “抗議の手紙”もでっち上げ
信平氏は裁判で、“(自分が受けた)被害に対する「抗議の手紙」を送付し、その報復として役職を解任された”と主張。その証拠として、1992年(平成4年)5月18日付の手紙の下書きと書留郵便物受領証を提出した。しかし、学会側は、学会本部に届いた本物の手紙を提出。実際は、「申しわけなさで一杯でございます。どうかお許し下さい」「どうか、いたらない、悪い私ですが学会において下さい」という、信平氏側の主張とはまったく異なる「謝罪の手紙」だったことが判明。下書きすらも偽造だったことが明らかになった。