「言論・出版問題」について

1960年代末から70年代にかけて展開された創価学会に対する大々的なネガティブキャンペーンのことです。その契機となったのは、69年11月に出版された、政治評論家・藤原弘達氏の著作『創価学会を斬る』です。その後、多くのマスコミが“創価学会・公明党は自らに批判的な書籍の出版を阻止するために、著者や出版社、取次店、書店などに圧力をかけるなどの「言論・出版の弾圧」をしている”とバッシングを始めます。

1.『創価学会を斬る』について

藤原氏の著作『創価学会を斬る』では、創価学会員について「狂信者の群れ」「その大半は、一種の底辺層の人々」などと表現しています。また、熱心に活動に励む様子を揶揄している箇所も多く見られます。作家の佐藤優氏は、こうした藤原氏の言説について、「藤原がここで展開しているのは、創価学会をナチズムやファシズムに似ているとする印象操作に過ぎない」「創価学会員を『狂信者の群れ』と表現するのは、現代の基準では憎悪(ヘイト)言説に該当する」(『池田大作研究』)と述べています。
また、同著は、創価学会本部や池田大作第3代会長などに対する取材が全く行われないまま執筆されました。しかも部下に口述したものを出版社にまとめさせるという安易なものでした。藤原氏とも親しかった評論家・大宅壮一氏は「きわめてぞんざいな方法である。これではキワモノ出版といわざるを得ない」(『現代』70年3月号)と非難しています。

2.売名行為のために仕掛けた〝隠しテープ〟

69年夏に同著の予告が出た際、創価学会の秋谷栄之助総務(当時)らが、藤原氏に会い、「今まであまりに事実に基づいてない記述が多すぎた。客観的に正確な評価をして欲しい」等の要望をしました。藤原氏は、この時の会話を隠しマイクでテープに録音。言論・出版妨害の証拠であると触れ回ります。しかし後日、「週刊朝日」誌上で公開されたテープの内容は、言論妨害の形跡はなく、話し合いは終始友好的に行われ、脅迫めいた言葉は一つもありませんでした。
 ライターの青山樹人氏は「仮にも違法な言論弾圧があって証拠まであるというのなら、藤原弘達はただちに法的手段に訴えればよかったのではないのか」と指摘するように、隠しテープの一件は、藤原氏自身が売名行為のために仕掛けた罠であるといえます。

3.日本共産党とのつながり

『創価学会を斬る』は、同年12月27日に実施される第32回衆議院議員選挙の直前に発刊される形になりました。そして、同著の刊行に際して創価学会・公明党が言論弾圧を行ったと大きく取り上げたのが日本共産党です。
日本共産党は、同年12月13日のNHKの選挙特集番組の中で、この一件を取り上げて以降、機関紙『赤旗』で大キャンペーンを張り、衆議院選挙(同年12月27日)の期間中に「赤旗」の号外ビラを全国で配布しました。また、共産党と関係の深い文化人・知識人、同党系の諸団体を動員してのシンポジウムや声明発表なども盛んに実施しました。
保守系の評論家とされていた藤原氏の言説に、なぜ共産党が素早く反応したのか。このことについて佐藤優氏は、「共産党は『創価学会を斬る』を扇動の道具として最大限に活用し、その刊行を創価学会と公明党が妨害したとする宣伝を徹底的に行った」(『池田大作研究』)と評しています。
また、大宅壮一氏は「題名からして、『創価学会を斬る』という表現を用いていることは、明らかに初めから創価学会への挑戦であり(中略)しかも、奥付の発行日が昭和44年11月10日ということは、衆議院選挙まであと1ヶ月と18日、選挙戦における秘密兵器の効果を狙ったと思われてもいたしかたのない時点で刊行されている。これは重大な問題である」「今度の事件が、タレントとしての藤原弘達の視聴率を高めたことは事実である。だが、視聴率を高めたとしても、信頼度を高めたかどうかは疑問だ。評論家として大事なことは信頼度の有無なのである」(『現代』70年3月号)と述べています。

4.加藤周一「丁丑公論私記」

創価学会・公明党バッシングについて、当時の知性はどう見つめていたのでしょうか。日本を代表する評論家である加藤周一氏は、「潮」70年8月号に「丁丑公論私記」を発表。「言論・出版問題」におけるマスコミの姿勢に異議を唱えます。
「丁丑公論」は、明治時代の思想家・福澤諭吉が著した論文です。「丁丑」とは、1877年(明治10年)の干支のこと。この年に勃発した「西南戦争」で、西郷隆盛は、明治新政府に抵抗した末、戦死します。以降、新聞各紙は西郷に対する評価を一変。明治維新最大の貢献者は、一夜にして、「古今無類の賊臣」へと貶められます。いとも簡単に論調を変えるマスコミに対して、福沢は「新聞記者は政府の飼犬に似たり」と述べ、「西郷に私怨あるものかと疑はるる程」に論調を豹変させた新聞、その論調に迎合する世間に対して反論を展開します。
「丁丑公論私記」の中で、加藤氏は「挙世滔々として、日頃役者や人気歌手の私事の報道に専念してきた週刊雑誌さえも、決然起って『自由の敵』を糾弾するかの如く、その状あたかも、福沢流にいえば、公明党に『私怨あるか』の如くであった」と述べます。加えて、政府や大企業の非には黙り込み、一政党の非のみを責め立てるようなジャーナリズムにとって、〝「言論の自由」は言い逃れのための道具に過ぎない〟と指摘します。
「公明党を弾劾すべし」とのマスコミや世論の風潮に、加藤氏が反対する理由について、次のように述べています。「公明党を支持するからではない。況や同党との間に個人的なつながりをもつからではない。(私は公明党の誰にも会ったことさえない)この結論に反対する理由は、今日の日本国における『言論表現の自由』の侵害の状況そのものであり、それだけである」「『言論表現の自由』の侵害、または少なくともその圧迫は、わが国において新しいことでもなく、また公明党に限ったことでもない」と。

5.藤原弘達氏の「正体」

「言論・出版問題」から約半世紀が経ち、新しい事実が判明しました。藤原氏は内閣調査室(現・内閣情報調査室)と緊密な関係を持っていたのです。
内閣調査室幹部を務めていた志垣民郎氏の著書『内閣調査室秘録――戦後思想を動かした男』(同著、岸俊光編)には、政府に味方する保守の言論人を確保することが内閣調査室の役割であり、その象徴的な例が藤原弘達氏であったと記されています。志垣氏と藤原氏は、東京大学の同級生だったこともあり、1960年から内調による藤原氏の接待が始まります。当時、藤原氏は、左翼の理論的リーダーになる可能性があったようです。接待は79年まで行われ、その回数は100回を超えています。
内調と藤原氏の関係性について、佐藤優氏は、「これだけの接待を日常的に受けていることから、内調から藤原に金銭の流れもあったと考えるのが自然だ」「藤原が中立的な評論家ではなく、政府の意向を体現する工作に組み込まれた有識者であったことは、言論問題を考察する際に無視できない要因だ」と述べています。
こうした事情を鑑みると、「言論・出版問題」は、創価学会・公明党を陥れようとした「作られたスキャンダル」であったといえるでしょう。