学会二世の私が信仰する理由
「"スピリチュアル"ってなんか不気味」
生まれてすぐ創価学会に入会している私。
多くの人が「幸せ」になるために信仰は必要ないと思っているらしい今の時代に、「なぜ私は信仰するのだろう」と考えていました。
そんな時、職場の先輩が最近の「スピリチュアル(以下、スピ)」ブームについて話していました。
気分のリフレッシュや、悩みの解決手段を求めて、SNS動画で発信されている「スピ」を試し、合わなければ次の動画、また合わなければ次……と、自分に合う「スピ」を見つけるのが流行しているそうです。
その話を聞いたときに、偏見に溢れた「やば。」の声が、心の中で漏れてしまいました。
(創価学会も、こんな感じで「やば。」って思われているんですかねぇ……)
「知らない間にあなたもスピっていませんか?」
いわゆる「スピ活」には、神社のお参りやパワースポット巡り、御朱印集め、御守りを買う、などが挙げられるそうです。他にも、瞑想、風水、断捨離で運気を上げる、開運グッズなど。
広い範囲で見れば、サウナでととのう、恋愛が成就するといわれている画像を待ち受けにする、などもスピに含まれるような気がします。
流行している「スピ」動画には、例えば、現実から離れた癒し空間をデジタル上に作り、視聴者の心の負担を遠ざけるサポートをする、というものがあるようです。
これを聞いて「認知行動療法」を思い出しました。
「認知行動療法」とは精神療法の一つで、自分の置かれている環境から距離を取って、現実を見つめ直すというもの。
現状から少し休んで距離を取ることで、ポジティブなことが視界に入ってきて、気持ちが軽くなったり、次に向けての行動を考える余裕ができたりするという療法です。(参照:大野裕「認知行動療法と認知行動変容アプローチ~職域での活用可能性~」)
もちろん精神療法は、本来、専門家の指導のもとで行うべきで、このようなスピリチュアルや癒やしの方法を教える動画は、受け取る側が正確性を検証しないかぎり、たとえ誤った情報や危険が隠されていたとしても、そのまま拡散されてしまう点が心配です。
一方で、それほど現代人や若者の心は疲弊していて、実際、画面を何度かスワイプすればたどり着ける手軽なスピに救われている人が多いのが現実なのでしょう。
頑張った自分を癒す方法、悩みの解決方法を知っていることは大切だと、私も思います。
ここで私の脳内は、冒頭の疑問に戻ります。
何かを信じなくたって「幸せ」になれそうな今の時代に、なぜ人々は心の癒しを求めて「スピる」のでしょうか。
「スピ。何が良いの?」
今は「認められたい」時代、と言えるのではないでしょうか。
SNSに「いいね」をもらうと安心する。
「可愛くてごめん」などの自己肯定感爆上げソングが流行する。
ChatGPTに自分の行動を報告すると「あなたは本当によく頑張っている、偉い!」とベタ褒めしてくれる。
多様な一人一人を認め、自分もまた、その一人として他者に認めてもらうことを、みんなが期待している時代。
しかし一方で、経済や政治、教育など、社会的には多様性を許容していない面がいまだにあるのも事実です。
今の社会は、自分らしく生きることを肯定してほしいと願っている若者たちが、それを実現するには難しすぎる状況なのかもしれません。
「スピ」には、手軽に試せて、今という困難な社会を生きぬく人たちが求める癒しと安心があるのだということが、私にも理解できました。
「いま幸せなのに必要ある?」
……なるほど。
そういうことでしたら、創価学会の信仰も、それらの要素は網羅しています。
まず手軽さにおいては、各種スピに負けていませんよ。手を合わせて「南無妙法蓮華経」と唱えるだけですから。「南無妙法蓮華経」は世界共通言語なので、どの国の人でも唱えられます。何かを買ったり、どこかに足を運んだり、動画を見てやり方を学ぶ手間も必要もありません。
実は、日蓮大聖人は、当時の仏教の「瞑想」修行では悟りをひらくまでに時間と能力が必要で、多くの人を救うことができないという課題を解決するために「南無妙法蓮華経」の唱題行を説いたんです。「南無妙法蓮華経」と唱えることなら誰でもできますよね。
日蓮仏法が最も大切にしているのは、すべての人に無限の可能性があると信じることです。"自分と向き合い、自分を認め、他者をも認める"生き方を磨いていく。これが、700年以上も前から実践されてきた日蓮仏法なんです。
どうですか?この信心って、究極のポジティブ&ピースフル修行ですよね!!!
……あ。
推し要素がありすぎて、ついついプレゼンタイムに入ってしまいました(反省)
さらに、創価学会には癒しや安心も、めちゃめちゃあるんです!(#反省とは)
創価学会員の同世代、また世代を超えた先輩後輩と、お互いについて語り合う時間。会合に行けばなぜか元気をもらう。どんな自分も受け入れてくれ、自分らしくいられる、まさに安全地帯です。
その上で、信仰もスピも必要ないような、超前向きな人もいますよね。
"寝たら忘れる"
"何とかなるし自分で何とかする"
"まず悩まない" ナド。
そんな、今すでに「幸せ」な人が信仰に励むとどうなるのでしょうか。
聖教新聞にこんな記事がありました。
「元々、仕事は順調だったんだけど、自身の壁を破ろうと、向上心を燃やして業務に打ち込むと、思いがけない大型の案件が舞い込んだんだ。
思った以上の業績を達成した結果、社内表彰を受けるまでになってね。
その時に、この信心は、"プラス"をさらなる"プラス"に転換できると確信できたんだ。
順風であれ、逆風であれ、全てを良い方向に変えていくために、粘り強く挑戦する力を培えたこと自体が、自分にとって大きな功徳(=善い結果のこと)だったと実感しているよ。」
(2025年5月25日掲載 大学校生とナットクTALKより)
創価学会の信仰は、神様や仏様が救ってくれて、いつか幸せが舞い降りてくるような魔法ではありません。どんな状況に直面しても、その中でどう成長しようか、どう打開しようかと価値を見出すのが日蓮仏法です(「創価」とは「価値を創造する」という意味です)。
悩みがないことが幸せなのではなく、悩みがあったから強く大きく成長していける(=「人間革命」していける)。この成長が、本当の幸せだと思っています。
「"スピ"って、いいかも。」
悩んでいた疑問が、少しひらけてきたように思います。
「人間革命」していけるのはこの信心しかないと確信しているから、私は信仰しているのだと気づきました。
幸せの価値観は人それぞれだから、これを「幸せ」と感じるかどうかは、その人自身の問題だと片づけられてしまえば、そうかもしれません。
が、私も「認められたい」時代を生きるZ世代の一人。
ここまで読んでくれたあなたにも「なるほどね」って認めてもらえたら、ちょっと嬉しいナ♪
きっとこれからも信仰し続ける限り、このテーマについて思索していくでしょう。
「スピる」のも思ったより悪くなさそうですね。
私も頑張る自分を癒すために、唱題しようっと。
あ、実は唱題には癒し効果もあり、さらには自分の中からこうグググ~っと勇気が湧いてくる効果もあり、なんというか生命が躍動するというんでしょうk…(プレゼン強制終了)