環境ではなく心 2022年11月度座談会拝読御書「千日尼御前御返事」(雷門鼓御書)

創価学会では、毎月、全国各地で座談会という集いを開き、鎌倉時代の日蓮大聖人(1222年~1282年)が書き残された「御書」(論文や手紙など)を学び合います。機関誌の「大白蓮華」や「聖教新聞」には、その月に学ぶ「座談会拝読御書」を解説する記事が掲載されていますので、ここでは、信仰を持っていない方々にも理解しやすい視点から、青年部員が御書の内容を解説します。

こんにちは! 11月度担当のひろかつです。

先月に続き、今月も「心」をテーマに学んでいきたいと思います。

プロフィールにも書いていますが、私は保護猫を飼っています。飼い始めた当初は全然なつかず、ちょっと近づくだけでシャーシャーと言われてしまい(怒っている合図)、大変でした。しかし、妻があの手この手を使って猫と接していくと徐々に慣れていき、今では私にも頭をスリスリしてくれます(あきらめずに接し続けてくれた妻に感謝です!)。言葉は通じなくても、心を通わせられているということでしょうか…。心って不思議ですよね。

日蓮大聖人は、心の深遠さや、その無限の可能性を説いた御書を、たくさん書き残されていて、たとえば、心の不思議さを説くことが仏法の要であると述べられています(「心の不思議をもって経論の詮要となすなり」御書新版714ページ・御書全集564ページ)。

今月の拝読御書も、心の不思議さ、大切さを弟子に分かりやすく教えられた御文です。

拝読御書について

「千日尼御前御返事」(雷門鼓御書)は、1278年(弘安元年)閏10月19日、日蓮大聖人が57歳の時、身延(山梨県)から、佐渡にいる千日尼に宛てて書かれたお手紙です。

千日尼は大聖人の門下であり、夫の阿仏房と共に、大聖人が佐渡に流罪(注)された際に弟子となりました。世間的には罪人の身であった大聖人の弟子になるのですから、千日尼と阿仏房は、大聖人の教えや振る舞いによほど感銘を受けたのでしょう。

(注)佐渡流罪
日蓮大聖人が1271年(文永8年)、竜の口の法難の後、不当に佐渡へ流刑された法難。約2年5カ月に及ぶ佐渡滞在中、衣食住も満足ではなく、敵対する念仏者らにも命を狙われるという過酷な環境に置かれた。「開目抄」や「観心本尊抄」など数多くの重要な御書を著され、門下たちに励ましの書簡を多数送られている。

衣服や食料が不足していた大聖人に対して、千日尼たちは、監視の目がある中でも御供養の品々を届けます。その結果、住む所を追われ、罰金に処せられたこともありました。

大聖人が佐渡流罪を赦免され(ゆるされ)、身延に移った後も、阿仏房は、佐渡から身延への危険極まりない道のりを越え、大聖人のもとへ御供養を届けました。そのたびに、大聖人は、高齢の夫を送り出して佐渡で留守をあずかる千日尼の労苦に思いをはせ、温かな励ましのお手紙を託されています。今月の御書もその一つです。

瞬時に距離を超える

本文

譬えば、天月は四万由旬なれども、大地の池には須臾に影浮かび、雷門の鼓は千万里遠けれども、打てば須臾に聞こゆ。御身は佐渡国におわせども、心はこの国に来れり。

(御書新版1746ページ4行目~・御書全集1316ページ15行目~)

意味

譬えば、天の月は四万由旬も離れているけれども、大地の池には瞬時に月影が浮かびます。雷門の鼓は千万里の遠くにあっても、打てばその瞬間に聞こえます。同じように、あなたの身は佐渡の国にいらっしゃっても、心はこの国(身延)に来ているのです。

語句の説明

・「由旬」(ゆじゅん)
古代インドの距離の単位。1由旬とは、帝王が1日に行軍する道のりとされ、およそ10kmほどと考えられている。
・「須臾」(しゅゆ)
時間の単位。①一昼夜の30分の1をさす場合と、②最も短い時間の単位(瞬時)をさす場合がある。ここでは後者の意。
・「雷門の鼓」(らいもんのつづみ)
中国の会稽城という都市の雷門にあった巨大な太鼓。この太鼓を叩くと、遠く離れた都の洛陽まで瞬時に音が聞こえたとされた。

大聖人が、毎年のように佐渡から身延へ夫を送り出す千日尼の求道の心をたたえられた言葉です。師匠である大聖人を求める心は、いかなる距離も超えて伝わることを二つの譬えを用いて語られています。

一つ目は、天の月。空に月が浮かべば、その影は瞬時に地上の池に映ります(その距離、約38万km)。二つ目は、雷門の鼓。中国にあったとされる太鼓のことで、その音がはるか遠くの都まで瞬時に聞こえたと伝えられています(その距離、約900km)。それらと同じように、“千日尼の心は間違いなく今ここに届いていますよ”との大聖人の仰せです。

当時において佐渡と身延の間は、限りなく遠くに感じられたことでしょう。遠い距離を感じると、ともすれば心細く感じたり、また二度と会えないと思ったりするかもしれません。しかし、分かりやすい譬えを通して弟子の真心を最大にたたえられたこの御文から、千日尼は、自分を大切に思う師の温かさを感じたのではないでしょうか。

たとえ直接会えなかったとしても、その人を思い続けることで生きる力が湧くことがあります。アウシュビッツなどの強制収容所を生き延びた精神科医のヴィクトール・E・フランクルは、彼が絶望せずに生き延びることができた要因の一つとして、絶えず心の中で妻と対話をしていたことを挙げています。極寒の中、何時間も立たされながらも、彼はそのひどい状況について、実際には生きているのかどうか分からない妻に、語りかけていたと言います。そして心の中の妻に語りかけることによって、フランクルは絶望に負けず、生き続けることができたのです(ヴィクトール・E・フランクル著『夜と霧 新版』みすず書房を参照)。

この心の不思議さ、深遠さを説いているのが仏法なのです。

目標へ進む中で最高の境涯に

本文

仏に成る道もかくのごとし。我らは穢土に候えども、心は霊山に住むべし。御面を見てはなにかせん、心こそ大切に候え。

(御書新版1746ページ5行目~・御書全集1316ページ17行目~)

意味

仏に成る道もこのようなものです。私たちは穢土に住んではいますが、心は霊山浄土に住んでいるのです。お顔を見たからといってなんになるでしょう。心こそ大切です。

語句の説明

・「穢土」(えど)
けがれた国土のこと。煩悩と苦しみが充満する、凡夫が住む娑婆世界。現実世界のこと。
・「霊山」(りょうぜん)
霊鷲山の略。この山で『法華経』が説かれたとされ、久遠の仏がいる仏国土を意味する。

続いて、佐渡にいる千日尼の心が大聖人にまで届いていることと、「仏に成る道」つまり成仏への実践は、同じようなものであると教えられています。具体的には、私たちは「穢土」といわれる、苦悩に満ちた現実世界に住みながら、心は「浄土」(清らかな場所、国土)にいると仰せです。これはどういう意味でしょうか。

成仏への実践にとって大事なことは、環境ではなく心ということです。そして、成仏を目指して実践していく中に、何にも負けない仏の生命境涯が湧き出てくるということです。

私たちが日々生きていけば、悩みや苦しみを抱えたり、いろいろな課題に襲われたりします。大聖人の仰せは、この苦しみの「穢土」を清らかな「浄土」だと思いなさいという認識だけの問題ではなく、この仏法を実践して目標へ進んでいく中で、現実社会を生き抜く力が生まれ、困難を乗り越えていく境涯に到達できると励まされたものと拝せます。だからこそ、どこにいるのかという「環境」ではなく、前進していく「心」が大切なのです。

池田先生は次のように語られています。

「本来、人間ほど弱いものはないかもしれない。人間ほど醜く、残酷なものはないかもしれない。その半面、人間は『心』ひとつで、いくらでも強くなれる。いくらでも崇高になれる。心には色もない、形もない、長さもない。しかし心は無限大に広がっていく」(『法華経の智慧』中巻)

「心の不思議さ」を説いた仏法の智慧は、目まぐるしく揺れ動く激動の時代を生きる今こそ、真価を発揮するものではないでしょうか。

御書のページ数は、創価学会発行の『日蓮大聖人御書全集 新版』(御書新版)、『日蓮大聖人御書全集』(御書全集)のものです。

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