魔軍に勝って強い自分にレベルアップ 2025年7月度座談会拝読御書「弁殿並尼御前御書」

創価学会では、毎月、全国各地で座談会という集いを開き、鎌倉時代の日蓮大聖人(1222年~1282年)が書き残された「御書」(論文や手紙など)を学び合います。機関誌の「大白蓮華」や「聖教新聞」には、その月に学ぶ「座談会拝読御書」を解説する記事が掲載されていますので、ここでは、信仰を持っていない方々にも理解しやすい視点から、青年部員が御書の内容を解説します。

今年は6月の中旬頃から、例年より早く、そして厳しい暑さが続いていますね。多くの地域で夏本番を前に30℃超えの真夏日が頻発。
朝から気温が高くて、すでにエアコンなしではいられません。

暑さのせいなのか、ただの甘えなのか──。なんとなくダルくて、何もやる気が起きず、アイスを片手にスマホを見ているうちに、気がつけば1時間以上経っている。こんなことありませんか?
(私は5カ月になる娘の育児真っ只中。娘を寝かしつけた後、YouTubeを開いてしまうと1時間が「一瞬」です)

やりたかったことも、やるべきことも、目の前にあったはずなのに、いつの間にか気力ごと置き去りになっている。
目に見えない“何か”に心を引っ張られてしまう感覚――。
実はこれこそが、仏法でいう「魔」のしわざなのかもしれません。

仏法で説く「魔」とは、仏道修行を妨げようとするさまざまな働きのことですが、それは、日常のささいな心の揺れにも当てはまると思います。

今回は「弁殿並尼御前御書」を通して、大聖人の「しりぞく心なし」という「魔に振り回されない」生き方について学んでいきましょう。

拝読御書について

弁殿並尼御前御書は1273年(文永10年)9月19日、日蓮大聖人が52歳の時に佐渡の一谷で著され、弟子の弁殿(日昭)に対して、弁殿と関わりのある尼御前に伝えるように託されたものです。

本抄を認められる2年前の竜の口の法難(注1)、その後の佐渡流罪(注2)を機に、大聖人門下に対して所領没収や追放という大弾圧が始まりました。多くの門下が退転しましたが、尼御前は信心を貫きました。

(注1)竜の口の法難
1271年(文永8年)9月12日の深夜、日蓮大聖人が斬首の危機に遭われたこと。
(注2)佐渡流罪
竜の口の法難の後、不当な審議の末、佐渡へ流刑に処せられたこと。

大聖人は、初めに過去の武将の名を挙げて、優れているとされても戦いに敗れた史実を示されます。そして、立宗から20年余り、御自身が「法華経の行者」として現実社会で、「第六天の魔王」との熾烈な闘争を繰り広げたことを述べ、「日蓮、一度もしりぞく心なし」と断言されます。

多くの弟子が退転する中、尼御前が信心を全うしてきたことを称賛し、最後に、自ら頼みとする使用人を大聖人のもとに遣わしたことは、釈迦・十方の諸仏もご存じになるだろうと深く感謝されます。

「魔」は自分の中に

本文

第六天の魔王、十軍のいくさをおこして、法華経の行者と生死海の海中にして、同居穢土を、とられじ、うばわんとあらそう。日蓮その身にあいあたりて、大兵をおこして二十余年なり。日蓮、一度もしりぞく心なし。

(御書新版1635㌻1行目~3行目・御書全集1224㌻3行目~5行目)

意味

第六天の魔王は、十種の魔の軍勢を用いて戦を起こし、法華経の行者を相手に、生死の苦しみの海の中で、凡夫と聖人がともに住んでいるこの娑婆世界を〝取られまい〟〝奪おう〟と争っている。日蓮は、その第六天の魔王と戦う身に当たって、大きな戦を起こして、二十数年になる。その間、日蓮は一度も退く心はない。

語句の説明

・「第六天の魔王」(だいろくてんのまおう)
欲界の第六天にいる他化自在天のこと。人々の成仏を妨げる魔の働きの根源。

仏法では私たちの生きる現実社会は「第六天の魔王」が支配する国土であると説かれています。

特に、広宣流布のために立ち上がる「法華経の行者」に対しては、その前進を阻もうと、第六天の魔王があらゆる手段で戦いを仕掛けてくると説かれています。

その際に魔王が送り出すのが「十軍」です。人間の生命に潜むさまざまな煩悩を十種に分類したもので、欲望、憂い、飢えと渇き、欠乏を満たそうとする激しい欲求、睡眠(睡魔)、怖れ、疑いや後悔、怒り、富や名声への執着、おごり人を蔑むこと、です。私たち自身の中にある弱さや迷いが表れたものと捉えます。

「生死海」とは、生と死を繰り返す苦しみに満ちたこの世のことで、「同居穢土」とは、私たちが生きる現実世界(娑婆世界)を意味します。

私たちの生活は、成長しようとしたり、人々を幸せにしようしたりする仏の働きと、それを阻もうとする魔の働き、つまり、人間を幸福にする働きと、不幸にする働きとの連続的なせめぎ合いのなかにあるのです。

大聖人は幕府による弾圧という大きな困難に直面されました。

そのうえで、「日蓮その身にあいあたりて、大兵をおこして二十余年なり。日蓮、一度もしりぞく心なし」と仰せになっています。困難な出来事を魔の働きと見抜き、一歩も退くことなく民衆救済の歩みを進められたのです。

魔を魔と見破り、一歩も退かない心で信仰の実践を貫く――。これこそが信仰者にとって大事なことであると教えてくださっています。

一歩を踏み出そう

「第六天の魔王」が送り出す「十軍」との戦いは、信心に限らず、私たちの毎日の生活のなかにも、現れてくると考えられます。

大聖人のように権力に不当に命を狙われるような困難こそなくても、私たちの心の中に、そうとはわからないように、ふと「魔」が現れるのです。

例えば、やろうと思っていたことを後回しにしそうになる時。気力が出ずに動けない時。「どうせムリだ」とあきらめてしまいそうになる時など。

私にとっては、娘の育児の際にも「いくさ」が起こります。
寝かしつけがうまくいかない日は夜泣きで寝られない。「お願いだから寝てくれ……」とあやす。“眠たくて泣きたいのはこっちのほうだよ”と、イライラが募って妻にも少し強くあたってしまう。そしてすぐに自己嫌悪――。

寝不足からくる「睡魔」、サッカー動画を見たいという「欲望」「執着」、うまくいかない現実への「怒り」、寝られないかもと思う「疑い」「怖れ」、イライラしてしまった「後悔」、もうどうすればいいか分からない「憂い」。

こう考えると、寝かしつけ一つとっても魔の十軍が次々と襲ってきていますね……。

しかし、魔の存在に気付き、「今、試されてるのかも」と思えたら、それは勝利への大きな一歩です。

“怒りを抑えてやさしく声をかけよう”、“動画は今見なくてもいいじゃないか”、“隣にいてくれる妻に「ありがとう」と伝えよう”

自分の弱さという「魔」に打ち勝って、小さくとも一歩を踏み出すことは、現実を生きる私たちにとって、自分を強くすることになると思います。

池田先生は次のように言われています。
「『最初の一歩』が、勇気がいるのです。『0から一までの距離』は、『一から百までの距離』よりも大きいと言ってもいい。『千里の道も一歩から』です。大切なのは『一歩』を踏み出すことです」(『未来対話』)

小さな勇気、小さな一歩を重ねることで、強い自分へとレベルアップできるはずです。

毎日、魔の十軍に囲まれても、それはレベルアップのために必要な戦い。魔を魔と見破りながら、自分らしく前を向いて、負けない一歩を大切にしていきましょう。

御書のページ数は、創価学会発行の『日蓮大聖人御書全集 新版』(御書新版)、『日蓮大聖人御書全集』(御書全集)のものです。

SOKAnetの会員サポートには、教学研鑽用に以下のコンテンツがあります(「活動別」→「教学」)。どなたでも登録せずに利用できますので、ぜひご活用ください。
・御書検索(御書新版・御書全集) ・教学用語検索
・Nichiren Buddhism Library ・教学入門 ・まんが日蓮大聖人
・仏教ものがたり(動画) ・教学クイズ ・座談会御書e講義

この記事のtag

#座談会拝読御書