真心をどこに向けるか 2026年11月度拝読御書「南条殿御返事(法妙人貴の事)」

創価学会では、毎月、全国各地で座談会という集いを開き、鎌倉時代の日蓮大聖人(1222年~1282年)が書き残された「御書」(論文や手紙など)を学び合います。機関誌の「大白蓮華」や「聖教新聞」には、その月に学ぶ「座談会拝読御書」を解説する記事が掲載されていますので、ここでは、信仰を持っていない方々にも理解しやすい視点から、青年部員が御書の内容を解説します。

今年ももう終わるな~と思う今日この頃、漢字ひと文字で今年を表すとなんだろうな~と考えています。

みなさんは自分の今年1年を表す漢字はありますか?
私は「慈」です。イヤイヤ期に入った双子に対して、絶対に愛情を持って接することだけは忘れないと、心に強く決めたからです。

そう決意して以来、不思議なもので人への接し方も柔らかくなった気がします。苦手な人に対しても、この人も自分の見えていないところで苦労しているのかなとか思うようになりました。心をどこに向けるかで自分を取り巻く環境も変わるのだと実感しました。

今月の拝読御書の「南条殿御返事(法妙人貴の事)」は、そうした一念の違いが、功徳の大きさを変えることを教えられている御書です。
早速、背景と大意から学んでいきましょう。

拝読御書について

本抄は、1281年(弘安4年)9月11日、日蓮大聖人が身延で著され、南条時光に与えられたとされています。病気の報告と、御供養の品々をお届けしたことに対する御返事です。

本抄ご執筆当時、熱原の法難をはじめ、大聖人の門下は権力からの迫害にさらされていました。時光は迫害に遭う大聖人門下をかくまったことなどで、幕府から目をつけられてしまいます。

幕府から多くの公事(年貢以外の雑税や夫役など)を課せられ、南条家の財政・生活は困窮していきます。それは「乗る馬もなく、妻子は身につける着物もない」(新1919・全1575、通解)ほどでした。

しかし、そのような苦難に直面している状況にあっても、時光は身延にいらっしゃる大聖人の身を案じて、塩や大豆など、御供養の品々を届けます。困難に怯まず師匠を支え続けた弟子に対し、大聖人は本抄で「あなたが私のことを思い、数年にわたり供養されたことは、なんとありがたい志でしょう」と記されています。

また今回学ぶ御文の直前で大聖人は、徳勝童子が釈尊に土の餅を供養して、後に阿育大王(アショーカ王)として生まれた例を紹介されています。食べられない土の餅でも、仏に尽くしたいという純粋な真心に、絶大な功徳がもたらされたのです。

本文

釈迦仏は「我を無量の珍宝をもって億劫の間供養せんよりは、末代の法華経の行者を一日なりとも供養せん功徳は百千万億倍過ぐべし」とこそ説かせ給いて候に、法華経の行者を心に入れて数年供養し給うこと、有り難き御志かな。金言のごとくんば、定めて後生は霊山浄土に生まれ給うべし。いみじき果報なるかな。

(御書新版1923㌻6行目~1924㌻1行目 御書全集1578㌻5行目~8行目)

意味

釈尊は「私を、無量の珍宝をもって、億劫という果てしなく長い間、供養するよりも、末法の法華経の行者を、たとえ一日でも供養する功徳のほうが、百千万億倍も優れている」と説いておられるので、法華経の行者である日蓮を信じて、この数年の間、供養されていることは、なんと、ありがたい志であろうか。
この金言(仏の言葉)の通りであれば、必ず後生は霊山浄土にお生まれになるに違いない。なんと素晴らしい果報であろうか。

語句の説明

・「霊山浄土」(りょうぜんじょうど)
仏の住む清浄な国土のこと。「霊山」とは霊鷲山のことで、釈尊が法華経を説いた場所。「浄土」は、衆生が住む国土(穢土)に対して、仏の住む清らかな地をいう。

・「果報」(かほう)
過去世に積んだ因による結果、報い。

信心の志を貫く

拝読御文の冒頭では、法華経法師品第10の文の趣旨を踏まえて、“末法の法華経の行者を一日であっても供養する功徳は、無量の宝をもって計り知れない長期間、釈尊を供養する功徳よりも、百千万億倍も優れている”と示されています。

なぜ、それほどまでに大きな功徳があるのでしょうか。

それは「末法の法華経の行者」が、釈尊をはじめとするすべての仏を仏とした根源の法——すなわち「南無妙法蓮華経」の大法を、生きとし生けるすべての人の幸福という大願のために弘め抜いていく存在だからです。

日蓮大聖人が度重なる大難を乗り越えて南無妙法蓮華経を弘め抜かれたお姿は、まさに経文に説かれている通りの実践であり、末法の法華経の行者そのものです。

そして、その大聖人を真心の御供養をもって支えてきた門下の「志」を、“なんとありがたいことか”と心から称賛されているのです。

特に「法華経の行者を心に入れて」という仰せからは、命がけで広宣流布、すなわち人々の幸福のために生きる大聖人を、心から尊び慕う時光の真心を大聖人が温かく包み込まれている慈愛が伝わってきます。その大聖人のお心に応えたいと、時光も強盛な信心の志を貫きました。

時光は経済的な苦境や病気などさまざまな危機を乗り越え、74歳まで生き抜きました。大聖人御入滅の後も、およそ50年の長きにわたって、大いに広宣流布のために尽くし抜き、誉れの人生を全うしたのです。

わが生命の仏性を開いていく

さて、時光はじめ門下たちが行ってきた「供養」とは、そもそもどのような意味なのでしょうか。

供養の原語は、サンスクリット語(梵語=古代インドの文章語)の「プージャー」です。もともとは、「尊敬の気持ちで種々の行いをすること」を意味しています。

そう考えると、供養とは単に物を差し出すことではなく、「相手を尊い存在として大切に思い、心身ともに支えること」を指すのだと分かります。

土の餅を釈尊に捧げた徳勝童子や、南条時光の振る舞いが示しているのも、まさに「供養において何より尊いのは、物ではなく、そこに込められた真心である」という真実ではないでしょうか。

日蓮大聖人の仏法は、誰もが生まれながらに持っている一番素晴らしい可能性(仏性)を開き、自分だけでなく、家族や友人、周囲までも幸せにしていくことが可能です。

現代において、日蓮大聖人のお心を受け継ぎ、人々の幸福のため、平和のために励んでいる唯一の団体が、創価学会です。

その上で大聖人は、他の御書で、供養する相手が悪人であれば、どれほど純粋で尊い真心からの供養であっても、悪を助長し加担することになるとも指摘されています。

例えば、困っている人を助けたいという善意から寄付をしても、そのお金が人々を傷つけたり、苦しめたりする活動に使われていれば、結果として悪を助長することになってしまいます。

現代に置き換えれば、暴力や差別を助長する言説や無関心、諦めなど人間を弱く、愚かにするような、思想、勢力などを助長してはいけません。

何を尊敬し、何を支援するかに、その人の信条や価値観が現れます。
自分の真心を何に向けるのか――自身の行動を振り返りながら人生をより豊かにしていきたいですね。

御書のページ数は、創価学会発行の『日蓮大聖人御書全集 新版』(御書新版)、『日蓮大聖人御書全集』(御書全集)のものです。

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