苦難が幸福な人生を築く――父の闘病体験を通して感じたこと

「お父さんが、がんになった」
大学1年生の秋頃のこと。電話越しの母の震える声に、衝撃が走ったことを今でも覚えている。医師からは、このまま父の病状が進展すれば、命も危ないと伝えられたという。
創価学会の信仰を真面目に貫いてきた父だった。「そんな父がなぜ……?」。頭に浮かんだ疑問を、学生部の先輩に打ち明けた。先輩は、「お父さんの病気は絶対に治る! 僕も懸命に祈るから、この試練を一緒に乗り越えていこう!」と、気落ちする私を渾身で励ましてくれた。

一家の大黒柱を失う恐怖と向き合いながら、私は、必死に学会活動に励んだ。父の完治を御本尊に祈り、この信仰を友人に語っていった。とはいえ、正直、自分の心は苦しいまま。信仰の確信はほとんどなかったと思う。
しかし、その中で、父はがんの権威と呼ばれる名医に巡りあうことができた。医師が提案した治療によって、病状は好転。それを目の当たりにする中で、私は、信仰の力を確信していった。

目に焼き付いたのは、一切動じない父の姿だった。父は元々、体があまり強くはない。そんな人間が、還暦を目前に控え、「死ぬ可能性がある」と告げられる。絶望を感じたり、弱い心に支配されたりしても、不思議ではない。
たが父は、不安な様子を微塵も見せずに、笑顔を見せ、気丈に振る舞った。父の後ろで、一緒に唱題することも多かったが、父の背中は、苦難に立ち向かう「強い信仰人」として大きく映った。「自分も父のような人間になりたい」と思ったことが、私の信仰の原点だ。
父と母と、家族3人で学会活動に走り抜いた。がんの宣告から1年後、医師が告げた。「不思議ですが、がん細胞がほとんど無くなっています」。その後、父は寛解を勝ち取り、今も何不自由なく元気に日常生活を送っている。

日蓮仏法の真髄――「煩悩」がそのまま「菩提」に

仏法の法理に「煩悩即菩提」とある。煩悩は「悩み」、菩提はそれを乗り越えた「幸福」を指す言葉だ。一般的に、煩悩と菩提とは正反対の概念のように思えるが、日蓮仏法は、煩悩に覆われた苦悩の身が、そのまま菩提に輝く自在の身になると説く。悩みがあるからこそ、幸福な状態を得ることができるのだ、と。
それは、苦難をただ受け入れる「諦め」でなければ、安易な慰めや気休めでもはない。強盛な信心で勇気を奮い起こし、苦難に真正面からぶつかっていくことで、現状打開の力を自らの生命に湧き立たせていくのである。
苦難それ自体が、幸福な人生を築く原動力となっていく――これが日蓮仏法の真髄である。

長い人生の途上では、大なり小なり、試練はつきものだ。私にとっては、父の闘病が、本格的に苦難に向き合う初めての経験だった。人生の「いざ」という瞬間に、自身を奮い立たせる方途が、あるかないか。この一点で、人生は大きく変わると実感する。
学会には、私の父のように、苦境に挑み、乗り越え、人生を勝ち開いてきた先輩たちが大勢いる。そんな一人一人が、周囲の人を照らす希望の光となっている。

もちろん、私の人生も苦難の連続だ。今も悩みは尽きない。だが、がんとの闘いを悠然と勝ち越えた父の姿を思い浮かべるたびに、「自分も負けない!」との勇気が湧き上がってくる。
この生き方を教えてくれた家族、学会への感謝は尽きない。創価学会員の誇りを胸に、一生涯、この信仰を貫いていく決意だ。
地道に着実に、何ものにも動じない、不動の境涯を築いていきたい。

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