「東村山デマ事件」の時代背景

【「創価新報」転載 】
「東村山デマ事件」の真相  

「東村山デマ事件」が起きた1995年は、激動と混沌の年だったといえる。1月17日に「阪神・淡路大震災」が発生。3月20日にはオウム真理教による「地下鉄サリン事件」が勃発し、世間を震撼させた。次々と明るみに出る凶悪犯罪集団の恐るべき実態に、“宗教は怖い”との短絡的なイメージが世間に植え付けられた。

こうしたムードの中で持ち上がったのが、「宗教法人法」の見直し論だった。当時の村山富市首相は、参院予算委員会の集中審議で次のように言及する。

「宗教法人に名を借りて逸脱行為を行うことは認めるわけにはいかない」「宗教法人法についても検討する必要がある」(「朝日新聞」同年4月4日付)

この首相発言によって、宗教法人法の改正議論が一気に加速。「オウム事件の再発防止」を大義名分として、同年4月末に文部大臣の諮問機関である「宗教法人審議会」が開催された。

そもそも宗教法人法とは、戦前の国家神道による思想統制によって、日本が悲惨な戦争を起こした反省を踏まえ、憲法が規定する「信教の自由」を保障するために制定されたもの。国が宗教法人を管理・監督するような法律に変えてしまえば、「信教の自由」に抵触しかねない。そのため政府は当初、3年程度の時間をかけ、じっくり検討するとしていた。だが、ある時を境に、宗教法人法の改正は強引かつ急ピッチで進められていくのである。

“政争の具”に使われた宗教法人法改正

きっかけは、同年7月の参議院選挙だった。村山首相が「社会党と自民党と新党さきがけの三党連立政権の真価を問う」と位置づけた選挙で、社会党、新党さきがけは大惨敗。自民党は、公明党の一部が加わった新進党に「比例第1党」を譲り、一般紙でも「自社敗北 新進が躍進」「村山連立に大打撃」(「毎日新聞」同年7月24日付)などと報じられた。

この結果は、阪神・淡路大震災や円高、金融不安などに対する政権の無為無策によるものであることは明らかだった。しかし、そうした民意の裁断に真摯な反省もなく、“新進党が勝ったのは創価学会の組織票があったからだ”として、宗教法人法の改正は“政争の具”にされ、学会攻撃を企む動きが顕著になっていったのだ。

8月に内閣改造した政権は、「宗教法人法」担当の文部大臣に学会弾圧の急先鋒だった議員を据えた。朝日新聞(同年8月20日付)は、「法改正は創価学会対策の色合いが濃くなってきた」(閣僚経験者)、「創価学会が困るような改正はできないか、これから知恵を絞りたい」(文教関係議員)などと、与党関係者のコメントを報じている。

そして9月に入り、週刊誌を中心に繰り広げられたのが「東村山デマ事件」の捏造報道だった。こうした“ネガティブキャンペーン”を主導したのは、反学会勢力が結集した「四月会」である。40もの宗教団体や一部政治家、評論家などが結託し、94年6月の発足以来、週刊誌メディアなどを使って、ことさらに学会攻撃を繰り返した。政治権力によって、一宗教団体への攻撃に狂奔する――それはまさに、戦前の思想統制の暗黒時代へ“逆戻り”しかねない戦後最大の「宗教弾圧」だった。

宗教法人法の改正議論は、あまりにも拙速で、「結論ありき」で進められた。政府がまとめた改正案はいずれも、国家権力が宗教を管理、監督し、「信教の自由」という基本的人権を侵す糸口になりかねない危険性をはらんでいた。宗教法人審議会の委員も15人中7人が反対・慎重意見。にもかかわらず、強制的に審議を打ち切り、95年10月17日に「改正」法案が国会へ提出されたのだ。

挙げ句の果てには、改正議論にかこつけて、与党議員が「東村山デマ事件」を載せた週刊誌を使って国会質問。国権の最高機関たる国会の場で、低劣な一部週刊誌のデマ記事を手に特定の宗教団体を攻撃する暴挙がまかり通るとは、あまりに常軌を逸している。

そして同年12月8日、反対意見に全く耳を傾けることなく、宗教法人法「改正」法案が可決された。それは、適正な手続きや民主主義を無視した暴挙であり、民主主義の根幹である「信教の自由」を侵害しかねない“改悪”だったのである。