あふれる情報に潜む罠とは?―呑み込む前に考えよう

SNSによって誰でも手軽に発信ができ、たくさんの情報があふれている現代は、デマやフェイクニュースが大手を振って歩く時代でもあります。誤った情報が社会的な混乱を生む。そんな姿を私たちはたびたび目にしてきました。

ただ、私たちが不確かな情報に惑わされかねないことは、今に始まったことではありません。関東大震災(1923年)の例を出すまでもなく、根拠のないデマは誹謗・中傷をもたらし、攻撃性が増すと悲惨な事件を引き起こしてきました。

なぜ不確かな情報に惑わされてしまうのでしょうか?

日蓮大聖人が著された御書(論文や手紙など)には、この問題を見通す深い洞察があります。

客の告白

大聖人は1260年(文応元年)、当時の実質的な最高権力者であった北条時頼に「立正安国論」(注)を提出されます。そこに記されているのは、誤った教えを信じる客と、その客を正しい教えに導こうとする主人の問答です。

(注)立正安国論
1260年(文応元年)7月16日、日蓮大聖人が39歳の時、鎌倉幕府の実質的な最高権力者である北条時頼(前執権)に提出された国主諫暁の書。飢饉・疫病・災害などの根本原因は謗法(正法への誹謗)であると明かし、正法に帰依しなければ、経典に説かれる三災七難のうち、残る「自界叛逆難(内乱)」と「他国侵逼難(外国からの侵略)」が起こると予言。しかし幕府はこの諫言を用いることはなかった。二難はそれぞれ1272年(文永9年)の二月騒動、1274年(文永11年)と1281年(弘安4年)の蒙古襲来として現実のものとなった。

客は主人の言葉に対して、時に冷静に根拠を尋ね、時に怒って席を立とうとしますが、次第に、主人の主張と穏やかな振る舞いに感化されます。ついには主人の言葉を受け入れ、正しい教えを自分が信じるだけでなく、他の人の誤りを戒めようと意を決し、語らいは終了します。

注目したいのは、客の最後の言葉です。なぜ自分が誤った考えを信じていたのか、その理由を率直に述べているからです。

本文

これ私曲の思いにあらず、則ち先達の詞に随いしなり。十方の諸人もまたまたかくのごとくなるべし。

(御書新版45ページ・御書全集33ページ)

意味

自分勝手な誤った思いからではなく、先達の言葉に従っただけである。いずれの人々もまた同じであるにちがいない。

私が勝手に考えたんじゃない! 昔の著名な人の言葉を信じただけだ! ほかのみんなもそうだよ!――という感じでしょうか。

正直な告白であるこの言葉は、大切な教訓を与えてくれます。人は、名の通った人物の言葉を信用しやすく、まわりの人々も賛同していれば、なおさら、かたくなに信じてしまうということです。どのような根拠があるのかは、突き詰めて考えていないようです。

また、その直前にある主人の言葉は、人々が誤った考えになびいてしまう様子を巧みに表現しています。

本文

愚かなるかな、各悪教の綱に懸かって鎮に謗教の網に纏わる。この朦霧の迷い、彼の盛焰の底に沈む。

(御書新版45ページ・御書全集32ページ)

意味

なんと愚かなことだろうか、各人が悪い教えの綱にかかって永久に謗法(正法を誹謗すること)の教えの網にまとわりつかれている。朦朧と立ち込める霧のようなこの迷いによって、あの盛んに燃えさかる炎の地獄に沈む。

「綱」や「網」という言葉は、誤った考えに意図せずして引っかかってしまうことを表現しています。「朦朧と立ち込める霧」という言葉からは、誤った考えに、ぼんやりと覆われ続ける様子が伝わってきます。

不確かな情報や誤った考えに、自分から喜んで染まろうとする人は、ほとんどいないでしょう。「有名な人が言っているから」「みんなも同じだから」知らず知らずのうちに引っかかり、染まってしまい、なかなか抜け出せないのです。

誰の言葉になびくのか

大聖人は別の御書で、ご自身が弘める正しい教えについて、聞く耳を持とうとしない人々の特徴を、より具体的に指摘されています。

本文

金ににたる石あり、また実の金あり。珠ににたる石あり、実の珠あり。愚者は金ににたる石を金とおもい、珠ににたる石を珠とおもう。この僻案の故に、また金に似たる石と実の金と、珠に似たる石と実の珠と、勝劣をあらそう。世間の人々はいずれを是ということをしらざる故に、あるいは多人のいうかたにつきて一人の実義をすて、あるいは上人の言について少人の実義をすつ。あるいは威徳の者のいうぎにつきて無威の者の実義をすつ。

(御書新版2146ページ)

意味

金(黄金)に似ている石があり、また本物の金がある。珠(宝石)に似ている石があり、本物の珠がある。愚かな人は金に似ている石を金と思い、珠に似ている石を珠と思う。この間違った考えのために、さらに、金に似ている石と本物の金と、珠に似ている石と本物の珠との間で、優劣を争う。世の中の人々は、どちらが正しいかということを知らないので、ある時には多くの人が言う方を支持して一人の人の真実の主張を捨て、ある時には上人(人々から尊ばれている高僧)の言うことを支持して少人(身分の低い人)の真実の主張を捨てる。ある時には権勢のある者が言う主張を支持して、権勢がない者の真実の主張を捨てる。

世間の人たちは、①多くの人々が言っていること、②世に尊ばれている人が言っていること、③権勢のある人が言っていることを信じる、とされています。誰が言っていようとも根拠のある正しいことであれば良いのですが、人々は、そうした点を見極めていません(なお大聖人は、さまざまな御書を通して、仏法における正しい教えの判断基準として文証・理証・現証を挙げられていますので、また改めて取り上げたいと思います)。

こうした洞察に基づけば、人は言葉(情報)自体の確かさではなく、どのような人が、どれほどの人々が言っているのかに引き付けられ、あまり深く考えずに情報の取捨選択を行っていると考えられます。

これは鎌倉時代だけでなく、まったく現代にも当てはまるものでしょう。むしろ、誰でも簡単に、匿名で、根拠不明な情報さえも発信できてしまうSNS全盛の時代は、そうした人間の特徴が、よりはっきりと、あぶり出される環境にあると言えないでしょうか。

たとえばTwitterであれば、「いいね」が多く付き、みんながリツイートし、しかも名の通った人も発信していればなおさら、いとも簡単に「そういうことがあるのだろう」と信じてしまいます。たとえ根拠がなく、出所不明の情報であっても、知らず知らずのうちに――。

手軽に情報を受け取れる時代だからこそ、流れてきた情報を鵜呑みにせず、一呼吸を置いて、根拠があるのかどうか、正しいのかどうかを見極める慎重さと賢明さが求められます。自らが発信し、拡散する側なら、それは言うまでもありません。

大聖人が人間と社会の本質を洞察された“御書のまなざし”は、21世紀の今、大切な視点を問いかけています。

  

御書のページ数は、創価学会発行の『日蓮大聖人御書全集 新版』(御書新版)、『日蓮大聖人御書全集』(御書全集)のものです。

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