ダイバーシティの求道者―日蓮大聖人と「寛容」

先日、新年度からの通勤定期を購入したところ、運賃が値上がりしていることに気づきました。その正体は物価高ではなく「鉄道駅バリアフリー料金制度」。子どもからお年寄りまで、身体の不自由な方々も、みんなが利用しやすい環境づくりを、みんなで支える仕組みです。

バリアフリー、ユニバーサルデザイン、ダイバーシティ、インクルーシブ…。多様性を尊重し、共存できる社会を目指し、今や、企業、団体、地域でさまざまな取り組みが行われています。

「創価学会 社会憲章」には、このような一文があります。

創価学会は、仏法の寛容の精神に基づき、他の宗教的伝統や哲学を尊重して、人類が直面する根本的な課題の解決について対話し、協力していく。

(創価学会 社会憲章)

あれ? いろんな宗派を批判した日蓮(大聖人)の姿と、真逆じゃない?

一般的には、そう疑問を持たれるかもしれません。ただ、「攻撃的」とも「排他的」ともイメージされやすい日蓮大聖人は、いわゆる不寛容だったのでしょうか。

ここでは、大聖人による批判の対象、教えの本質、具体的に求めたこと、という3点を通して、寛容について考えてみます。

「何」「誰」への批判だったのか

大聖人は、何を、誰に対して批判されたのでしょう。一言で言えば、「謗法」を行う「僧侶(特に高僧)」への批判でした。

「謗法と申すは違背の義なり」(御書新版6ページ・御書全集4ページ)とある通り、正しい教えに背くことが「謗法」です。正しい教えとは、釈尊の真意が説かれた最高の経典である『法華経』の教えを指します。

ただし、大聖人は『法華経』以外の経典を全否定されたわけではありません。「初成道の始めより泥洹の夕べにいたるまで、説くところの所説、皆真実なり」(御書新版53ページ・御書全集188ページ)と仰せの通り、釈尊の教えをすべて真実として尊重されています。その上で、覚りをそのまま説いた『法華経』を最も優れた教えとされ、覚りを部分部分しか説いていない仮の教えである他経典との差異を明らかにされました。『法華経』には、他の経典の教えを生かす開会(注1)という思想があります。大聖人は実践として、あらゆる修行の功徳がそなわる南無妙法蓮華経の唱題行を打ち立てられました。

(注1)開会[かいえ]
『法華経』以前の教えとされた爾前権教が方便として仮に説かれた教えであると明かし、これを真実の教えである『法華経』から正しく位置付けて生かすこと。もともと、一乗(唯一の仏の教え)を三乗(声聞・縁覚・菩薩に対応した教え)に分けて示すのが「開」、三乗を一乗に統一するのが「会」であるが、後には「開会」で一つの熟語となり、さまざまなものを、より高い立場から位置づけ、真実の意味を明かすことをいう。

なので大聖人の批判は、最高の教えである『法華経』に背くほか、『法華経』を軽んじる教えを唱えた僧侶たちに向けられました。当時の僧侶は、知識階層。まして大寺院の要職にある高僧は、諸経典に精通する人物です。だからこそ、教えの本意を理解せず、優劣をわきまえていない点を批判されたのです。

本文

真言師・華厳宗・法相・三論・禅宗・浄土宗・律宗等の人々は、我も法をえたり、我も生死をはなれなんとはおもえども、立てはじめし本師等、依経の心をわきまえず、ただ我が心のおもいつきてありしままにその経をとりたてんとおもうはかなき心ばかりにて、法華経にそむけば、仏意に叶わざることをばしらずしてひろめゆくほどに、国主・万民これを信じぬ。

(御書新版1759ページ・御書全集1327ページ)

意味

真言師、華厳宗・法相・三論・禅宗・浄土宗・律宗などの人々は、私も法を覚ることができた、私も生死の苦しみから離れることができたと思っているけれども、その宗を立てた本師たちは、依りどころとする経の意を知らず、ただ、自分が思いついたままにその経をとりたてようと思う浅はかな心ばかりであり、法華経に背いているので、仏の真意にかなわないのである。それを知らずに弘めていくうちに、国主も万民もこれを信じるようになった。

ただし、ここで疑問が浮かびます。

『法華経』が「正しい教え」って言うのは、日蓮(大聖人)が立てたロジックであって、諸宗にはそれぞれのロジックがあるんじゃない?

これへの教理的な説明は長くなるので割愛し、何によって『法華経』を最も優れた正しい教えとするのか、その本質を考えてみます。

あらゆる人々の成仏を開く経典

それは、あらゆる人々を区別なく成仏させる教え、ということです。『法華経』以外では、主に二乗(注2)、悪人、女性の成仏は、完全に閉ざされているか、考えるだけで気が遠くなりそうな長遠な時間にわたり生死を繰り返して修行しないと果たせないとされていました。

(注2)二乗[にじょう]
六道輪廻[ろくどうりんね]から解脱[げだつ]して涅槃[ねはん]に至ることを目指す声聞乗[しょうもんじょう]と縁覚乗[えんがくじょう]のこと。もとは声聞・縁覚それぞれに対応した教えが二乗であるが、この教えを受ける者(声聞・縁覚)についても二乗という。大乗の立場からは、自身の解脱だけを目指し他者の救済を図らないので非難された。

しかし、『法華経』は、それらの人々も、仏の最高の覚りの境涯に至れることを明らかにしました。

本文

今、法華経と申すは、一切衆生を仏になす秘術まします御経なり。いわゆる、地獄の一人、餓鬼の一人、乃至九界の一人を仏になせば、一切衆生皆仏になるべきことわり顕る。

(御書新版1420ページ・御書全集1046ページ)

意味

今、法華経というのは、一切衆生を仏にする秘術がある御経である。いわゆる地獄界の一人、餓鬼界の一人、ないし九界の中の一人を仏にすることによって、一切衆生が皆、仏になることができるという道理が顕れたのである。

『法華経』は、民族、国籍、性別、文化など、ありとあらゆる差異を超えうる、万人成仏の法なのです。ここに真の寛容の教えがあります。

反対に、諸宗派が『法華経』を軽んじることは、何を意味するでしょう。それは、あらゆる人々を成仏させる道を閉ざしてしまい、惑わせることを意味します。その点を批判された大聖人には、衆生救済の大きな慈悲があふれていました。(「なぜ政治に関わるのか #御書のまなざし」を参照)

とは言え、またも疑問が浮かびます。

寛容の教えを弘めてるって言っても、他の教えと優劣をつけたり、批判したりするのは、やっぱり不寛容じゃないの?

この観点を考えるために、大聖人が具体的に要求したものは何かを、最後に考えてみます。

尊重の土台の上に見解を述べ合う

大聖人は、命の危険に及ぶ迫害に何度も遭われました。どのような脅迫、あるいは誘惑があったとしても『法華経』の信仰を貫くという、気迫と確信を記された中に、次のような言葉が含まれています。

本文

智者に我が義やぶられずば用いじとなり。

(御書新版114ページ・御書全集232ページ)

意味

智者によって私の正しい法義が破られない限り、迫害などをしてくる人々の要求を決して受け入れることはない。

智慧の優れた人が、大聖人の主張(教え)を破ることがない限り、誘惑や脅迫などを聞き入れることはない、との一節です。『法華経』の教えに絶対的な確信がある裏返しですが、諸宗の僧侶たちと意見を戦わせることが前提になっていると捉えられます。

大聖人は、単に諸宗批判を繰り返されたのではありません。具体的には、諸宗の僧侶たちとの法論(仏法上の教義についての討論)、特に公開での討論を要求し続けられました。

本文

これらの子細、御不審を相貽さば、高僧等を召し合わせられ、是非を決せらるべきか。仏法の優劣を糾明せらるることは、月氏・漢土・日本の先例なり。

(御書新版883ページ・御書全集852ページ)

意味

今まで述べてきたことの詳細について不審が残っているならば、諸宗の高僧等を召し出され、どちらの言っていることが是か非かを決せられるべきではなかろうか。仏法の優劣を究明することは、インド、中国、日本において先例がある。

仏法者同士、ともに尊重する仏の教えという同じ土台の上で、(あくまで理性的・論理的に)見解を述べ合ってこそ、教えの優劣や正しさが証明されるからです。また、そこでは対話が生まれます。そして、公にすることで、正しさの判断は世の人々に開かれることにもなるのです。しかし、大聖人の度重なる訴えにもかかわらず、幕府や高僧たちが受け入れることは、ありませんでした。

あらゆる人々の幸福を願う慈悲をもって、厳しい迫害に耐え抜きながら、万人成仏の教えを弘められた大聖人の御生涯。教義の面であいまいにせず、厳格であった大聖人のお姿が、ともすれば「攻撃的」に映るかもしれません。しかしその内実は、尊重する仏の教えに基づいて、公けに堂々と意見を交わそうとする中で、真の寛容の教えを守るための言論だったと言えるでしょう。

不寛容に対しても寛容であれば、その寛容自体が崩されてしまうパラドックスは、古来、議論になってきました。他者を尊重するという基本の上で、寛容を守るための意志と行動も必要。そのことを、大聖人の御闘争に見ることができるのではないでしょうか。

SNSの発達によって、誰もが自由に意見を発信できる現代。多様性を保証するための機会の均等という点では、一見、望ましい環境に近づいていると言えるでしょう。しかし、匿名性を良いことに、寛容とは正反対に、他者を差別し、傷つける言葉、根拠のない誹謗・中傷が氾濫している現実があります。

真の寛容とは何か。寛容を守るために何が必要か。一人一人が悩み、考えていくべきテーマです。

御書のページ数は、創価学会発行の『日蓮大聖人御書全集 新版』(御書新版)、『日蓮大聖人御書全集』(御書全集)のものです。

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