『創価学会教学要綱』関連論考〈上〉 学会が「末法の御本仏」を宣揚――『創価新報』から転載

創価学会では、2023年11月18日の創立記念日に際し、『創価学会教学要綱』を発刊した。日蓮大聖人の仏法が学会の手で世界へ大きく広がり、社会的な存在感が強まる中、学会がどのような宗教団体であるのかを、各国の仏教団体をはじめ宗教界、また社会に発信するために出版されたものである。ここでは、『創価学会教学要綱』に関連して、「創価新報」に3回にわたって連載された青年部の論考から〈上〉「学会が『末法の御本仏』を宣揚」(2023年9月21日付)を転載する。(〈中〉末法の衆生のための三大秘法〈下〉現代における「僧宝」の意義

大聖人直結で万人成仏の妙法を世界へ

世界広宣流布の根本道場たる広宣流布大誓堂が、いよいよ完成10周年の佳節を迎える(2023年11月18日)。世界中の同志が、地涌の菩薩としての誓願を胸に、妙法流布の実証を示してきた10年の歩み。この間、創価学会は、御書を根本に日蓮大聖人の仏法の本義に基づき、世界宗教として飛翔する教学を展開してきた。ここで改めて、学会教学の根幹について、十大部を中心とする御書に基づき論じたい。今回は、日蓮大聖人を「末法の御本仏」と仰ぎ、宣揚する学会の確信を取り上げる。

題目が地球を包む

2018年3月。3・16「広宣流布記念の日」60周年を慶祝する世界青年部総会が、世界約1500会場を結んで盛大に開催された。各地に集結した75万人の青年が、国境を越えて師弟共戦の題目を同時に響かせた姿は、世界広布を象徴する光景であった。

そして2020年9月。未曽有のコロナ禍において、オンラインで世界青年部総会を開催。全世界で130万人以上が参加し、人類の分断の危機を乗り越える希望の連帯を示した。

広宣流布大誓堂完成以来のこの10年、創価学会は世界宗教としてますます雄飛している。学会員の題目が24時間365日、地球を包む様相は、〝仏教史上の壮挙〟と言うほかない。
  
国際宗教社会学会会長だった故ブライアン・ウィルソン博士は、学会が日蓮正宗から「魂の独立」を果たした第2次宗門事件の当時、学会の特徴を「在家の会員自身が、他の人々に生き生きとした宗教的知識と指導を伝える活動的な主体者となっている」と指摘。「情熱的な在家信徒」が「活気に満ちた指導性をもつ」ことでますます発展すると見通された。

「情熱的な在家信徒」とは、地涌の菩薩の使命に目覚めた同志であり、「活気に満ちた指導性」とは三代会長のもと日蓮仏法を現代によみがえらせた実践の教学に基づくものである。世界広布の伸展は、時代に即応した教学の展開と研さん、そこから生まれる自覚と確信によるのである。
  
また学会は、御書を英語、中国語、スペイン語など10言語以上で刊行し、ウェブサイトでも主要言語で公開。人類の宝というべき希望の聖典に誰もが触れられるよう環境を整備してきた。「本朝の聖語も、広宣の日は、また仮字を訳して梵・震に通ずべし」(御書新版2190ページ・御書全集1613ページ)との、日興上人の言葉を学会が実現したことは明らかである。何より、一人一人が自らの言葉で生き生きと仏法を広げていく草の根の対話運動によって、大聖人の仏法と御精神を五大州で宣揚してきた。

世界宗教への道は、「御書根本」「大聖人直結」の信心を貫いたからにほかならない。

釈尊以来の系譜

学会は、大聖人を「末法の御本仏」と仰ぐ。幾多の大難を勝ち越え、末法のあらゆる衆生が成仏できる道を現実に開かれたからである。

大聖人は「安州の日蓮は、恐らくは、三師に相承し、法華宗を助けて末法に流通す。三に一を加えて三国四師と号づく」(御書新版612ページ・御書全集609ページ)と仰せである。インドの釈尊、中国の天台大師、日本の伝教大師にご自身を加えて「三国四師」とし、釈尊の教えの真髄というべき法華経を宣揚する系譜を明らかにされた。

なぜ法華経なのか。大聖人は、法華経の中に、あらゆる仏を仏ならしめ、ひいては万人を成仏させる一念三千の教えが内包されている点を強調される。「一念三千こそ仏になるべき道」(御書新版117ページ・御書全集234ページ)であり、「一念三千の法門は、ただ法華経の本門寿量品の文の底にしずめたり」(御書新版54ページ・御書全集189ページ)と仰せの通りである。

そして「一念三千を識らざる者には、仏、大慈悲を起こし、五字の内にこの珠を裹み、末代幼稚の頸に懸けしめたもう」(御書新版146ページ・御書全集254ページ)と述べ、「法華経の肝心たる南無妙法蓮華経」(御書新版164ページ・御書全集258ページ)を三大秘法(本門の本尊、本門の戒壇、本門の題目)として末法に打ち立てられた。それは、仏法の素養がないとされた末法の人々を成仏へ導くための「大慈悲」によるものであり、衆生救済という釈尊の真意は、大聖人の手で、末法の万人救済の仏法として確立されたのである。

上行菩薩の使命のままに

大聖人の御生涯を画する大難といえば、竜の口の法難と佐渡流罪である。流罪地の佐渡で「日蓮といいし者は、去年九月十二日子丑時に頸はねられぬ。これは魂魄、佐土国にいたりて」(御書新版102ページ・御書全集223ページ)と記されたように、大聖人は連続する二つの大難の前後で立場が転換されたと自覚されている。

それは、大聖人自らが覚知された南無妙法蓮華経こそ、法華経において釈尊から上行菩薩ら地涌の菩薩に付嘱された法であり、釈尊に代わってその妙法弘通の使命を果たす立場への転換と言えよう。

釈尊の滅後がテーマとなる法華経の法師品には、その滅後に法華経を弘通する者の特徴が記されている。過去世に最高の覚りを完成しているが、衆生への慈悲によって清浄な業の果報を捨て、あえて悪世に生まれて法華経を弘める。如来の使いとして派遣され、如来の仕事、つまり法華経を説くことによって衆生を救済する――と。法華経では後に、地涌の菩薩が現れ、釈尊から滅後の弘教が託される点に鑑みて、これらは地涌の菩薩の特徴と言えよう。

大聖人は、「日蓮が法華経の智解は天台・伝教には千万が一分も及ぶことなけれども、難を忍び慈悲のすぐれたることはおそれをもいだきぬべし」(御書新版72ページ・御書全集202ページ)等と仰せのように、命の危険に及ぶ難を衆生救済の大慈悲をもって乗り越えたことについて、大難は法華経が説く通りであると捉え、法華経の行者の確信を不動のものとされた。

そもそも法華経で釈尊が、ほかでもない地涌の菩薩に付嘱したのは、滅後の難に耐えられるからである。

さらに大聖人は、「法華経に云わく『もし善男子・善女人、我滅度して後、能くひそかに一人のためにも、法華経の乃至一句を説かば、当に知るべし、この人は則ち如来の使いにして、如来に遣わされて、如来の事を行ず』等云々。法華経を一字一句も唱え、また人にも語り申さんものは、教主釈尊の御使いなり。しかれば、日蓮、賤しき身なれども、教主釈尊の勅宣を頂戴してこの国に来れり」(御書新版1526ページ・御書全集1121ページ)と仰せになり、「如来の使い」「教主釈尊の御使い」と自覚されていた。それは明らかに、地涌の菩薩、なかんずく上首・上行菩薩の使命を果たす存在に位置づけられる。

末法の教主の意義

「大覚世尊、寿量品を演説し、しかして後に十神力を示現して、四大菩薩に付嘱したもう。その所嘱の法は何物ぞや。法華経の中にも、広を捨てて略を取り、略を捨てて要を取る。いわゆる、妙法蓮華経の五字、名・体・宗・用・教の五重玄なり」(御書新版1399ページ・御書全集1032ページ)との御文では、自ら覚知された南無妙法蓮華経が、末法の衆生のために釈尊から地涌の菩薩に託されたものと宣言された。佐渡期以降、題目の弘通において「時」「機」「付嘱」を強く意識された点からも裏付けられよう(御書新版167ページ・御書全集260ページほか)。

南無妙法蓮華経は宇宙と生命を貫く根源の法である。ゆえに、「日蓮が慈悲曠大ならば、南無妙法蓮華経は万年の外未来までもながるべし。日本国の一切衆生の盲目をひらける功徳あり。無間地獄の道をふさぎぬ」(御書新版261ページ・御書全集329ページ)と仰せの通り、南無妙法蓮華経の弘通は、末法の一切衆生を救う道を切り開かれたことにほかならない。

このように大聖人は、法華経の行者としての確信に立ち、釈尊から法華経の肝心である南無妙法蓮華経を託された地涌の菩薩の使命のままに、末法の一切衆生の成仏を可能とする三大秘法を確立された。ゆえに創価学会では、末法における万人成仏の法を覚知し、明らかにした「末法の教主」との意義から、大聖人を「末法の御本仏」と仰ぐのである。

大聖人は、佐渡において「日蓮は日本国の諸人にしゅうし父母なり」(御書新版121ページ・御書全集237ページ)と記し、仏がそなえる主師親(「しゅうし父母」)の三徳を具備していると述べられた一方、以降も「日蓮は凡夫なり」(御書新版200ページ・御書全集284ページ)と記されている。南無妙法蓮華経によって、凡夫の身のまま仏界を現じられた末法の御本仏を範とし、私たちもまた凡夫成仏を目指して仏道修行に励むのである。

〝法主絶対〟の邪義

一方、日蓮正宗は、法主への絶対的な服従を強いる〝法主絶対論〟を振りかざしてきた。

「唯授一人の血脈の当処(=法主)は、戒壇の大御本尊と不二の尊体にまします(中略)この根本の二つに対する信心は、絶対でなければなりません」(能化文書、1991年7月)、「(法主は)現代における大聖人様」(「大日蓮」同年6月号)などと、耳を疑うような邪説を広言。また大聖人について、釈尊をしのぐ神秘性をことさらに強調し、そこに法主を同格として高めようとする。

日興遺誡置文には、「時の貫首たりといえども、仏法に相違して己義を構えば、これを用いるべからざること」(御書新版2196ページ・御書全集1618ページ)と断言されている。ここから、どうして法主絶対論など生まれようか。法主を大聖人と同一視するなど、「末法の御本仏」の偉大さを矮小化することもはなはだしい。

末法の御本仏たる日蓮大聖人が打ち立てられた妙法と御精神を、正しく世界へ宣揚し、広宣流布を成し遂げてきたのが、創価学会の歴史である。大聖人直結の誇りを胸に、私たちは地涌の菩薩の自覚のままに、広布誓願の道を真っすぐ歩んでいきたい。

(「創価新報」2023年9月21日付)

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