『創価学会教学要綱』関連論考〈中〉 末法の衆生のための「三大秘法」――『創価新報』から転載

創価学会では、2023年11月18日の創立記念日に際し、『創価学会教学要綱』を発刊した。日蓮大聖人の仏法が学会の手で世界へ大きく広がり、社会的な存在感が強まる中、学会がどのような宗教団体であるのかを、各国の仏教団体をはじめ宗教界、また社会に発信するために出版されたものである。ここでは、『創価学会教学要綱』に関連して、「創価新報」に3回にわたって連載された青年部の論考から〈中〉「末法の衆生のための『三大秘法』」(2023年10月23日付)を転載する。(〈上〉学会が「末法の御本仏」を宣揚〈下〉現代における「僧宝」の意義

「本門の本尊」を世界へ流布した学会

来月(2023年11月)は、広宣流布大誓堂の完成から10周年。ますます伸展する世界広宣流布は、日蓮大聖人が御図顕された御本尊を全世界へ流布してきた大業にほかならない。今回は、本門の本尊を中心に三大秘法を取り上げ、十大部を中心とする御書に基づいて日蓮仏法の本義を学ぶ。

「法華弘通のはたじるし」

世界五大陸から青年が集った先月の本部幹部会。アメリカSGIのアメリア・ゴンザレス女子部長の体験発表は、ひときわ深い感動を呼んだ。

――研修会で来日した8年前、思いがけず、総本部で池田先生ご夫妻と出会った。その歓喜のまま広宣流布大誓堂の御本尊へ唱題し、報恩感謝の人生を誓う。一家の宿命転換と広布拡大のために奮闘する中、無実にもかかわらず捕らわれていた父親が見事に無罪判決を勝ち取り、やがて御本尊を受持した。

「父のことがあったからこそ、私も信心の確信をつかむことができ、これまでに28世帯の方々へ御本尊流布をすることができました!」

弘教と幸福の実証が輝く笑顔に、割れんばかりの拍手と歓声が響いた。

末法の御本仏・日蓮大聖人は、青年・南条時光に「大願」を訴えられている。

「願わくは、我が弟子等、大願をおこせ。(中略)おなじくは、かりにも法華経のゆえに命をすてよ。つゆを大海にあつらえ、ちりを大地にうずむとおもえ。法華経の第三に云わく『願わくはこの功徳をもって、あまねく一切に及ぼし、我らと衆生と、皆共に仏道を成ぜん』云々」(御書新版1895ページ・御書全集1561ページ)

日蓮門下の大願は、不惜身命の信心に立ち、自他共の成仏を果たすことである。そのために大聖人は、末法の一切衆生の成仏を願い、「法華弘通のはたじるし」(御書新版2086ページ・御書全集1243ページ)として御本尊を御図顕された。「他事をすてて、この御本尊の御前にして、一向に後世をもいのらせ給い候え」(御書新版315ページ・御書全集374ページ)と門下に呼び掛けられている。この御精神のまま、御本尊根本の信心を貫くのが創価学会である。

根本の法を具現化

大聖人は、宇宙と生命を貫く根本の法を覚知し、それが「南無妙法蓮華経」であると明らかにされた。さらに末法の一切衆生が成仏できるよう、その実践のために根本の法を具現化して顕されたのが「本門の本尊」「本門の戒壇」「本門の題目」の三大秘法である。

大聖人が初めて三大秘法を整った形で表明されたのは、御本尊を御図顕された佐渡において、流罪赦免の直前(文永11年〈1274年〉1月)に記された「法華行者逢難事」であった。
  
「天台・伝教はこれを宣べて、本門の本尊と四菩薩、戒壇、南無妙法蓮華経の五字、これを残したもう」(御書新版1303ページ・御書全集965ページ)

また身延入山後の「法華取要抄」(同年5月)では「本門の本尊と戒壇と題目の五字となり」(御書新版156ページ・御書全集336ページ)と示され、さらに「報恩抄」(建治2年〈1276年〉7月)でも「本尊」「本門の戒壇」「南無妙法蓮華経」の三大秘法を明らかにされた(御書新版261ページ・御書全集328ページ)。

これらの御書で共通して強調されたのは、正法・像法には誰も三大秘法を説かなかったという点である。その理由として「一には、仏、授与したまわざるが故に、二には、時と機といまだ熟せざるが故なり」(御書新版1304ページ・御書全集965ページ)と述べ、釈尊からの付嘱、時、機の問題を挙げられた。また「国土乱れて後に上行等の聖人出現し、本門の三つの法門これを建立」(御書新版159ページ・御書全集338ページ)、「末法のために仏留め置き給う。迦葉・阿難等、馬鳴・竜樹等、天台・伝教等の弘通せさせ給わざる正法なり」(御書新版260ページ・御書全集328ページ)と仰せである。

三大秘法の御教示は、竜の口の法難・佐渡流罪を経て、根源の法である南無妙法蓮華経を覚知された大聖人が、妙法弘通を託された上行菩薩の使命を自覚され(付嘱)、末法(時)の一切衆生(機)のために御本尊の御図顕を果たされた上での、一大宣言であったと言えよう。

虚空会で地涌の菩薩に付嘱

地涌の菩薩が出現して顕す「本門の本尊」の具体相は、「観心本尊抄」(文永10年〈1273年〉4月)に記されている。

まず「この本門の肝心・南無妙法蓮華経の五字においては、仏なお文殊・薬王等にもこれを付嘱したまわず。いかにいわんや、その已下をや。ただ地涌千界を召して、八品を説いてこれを付嘱したもう」(御書新版136ページ・御書全集247ページ)と、釈尊から地涌の菩薩に本門の肝心・南無妙法蓮華経が付嘱されたと述べられた。

その本尊について「その本尊の為体は、本師の娑婆の上に宝塔空に居し、塔中の妙法蓮華経の左右に釈迦牟尼仏・多宝仏、釈尊の脇士たる上行等の四菩薩、文殊・弥勒等は四菩薩の眷属として末座に居し、迹化・他方の大小の諸の菩薩は万民の大地に処して雲客月卿を見るがごとく、十方の諸仏は大地の上に処したもう。迹仏・迹土を表する故なり。かくのごとき本尊は在世五十余年にこれ無し。八年の間にもただ八品に限る」(同)と詳しく示されている。

つまり御本尊の相貌は、法華経の虚空会(見宝塔品第十一から嘱累品第二十二まで)の中でも、地涌の菩薩が出現する従地涌出品第十五以降の八品に示されている。宝塔に釈尊が多宝仏と並び座り、地涌の菩薩に付嘱する虚空会の儀式を用いて、宝塔の南無妙法蓮華経を中心に十界の衆生の代表を配した文字曼荼羅を御図顕され、これを末法の衆生のための御本尊とされたのである。

題目をもって本尊とすべし

大聖人は、この十界具足の文字曼荼羅を御図顕され、門下に送られた。「観心本尊抄」に説かれた曼荼羅が、大聖人の正意の「本門の本尊」であることは明らかであるが、日蓮宗系には釈迦仏像を本尊とする教団もある。その相違が生じたのは、たとえば「報恩抄」の「日本乃至一閻浮提一同に、本門の教主釈尊を本尊とすべし。いわゆる宝塔の内の釈迦・多宝、外の諸仏ならびに上行等の四菩薩、脇士となるべし」(御書新版261ページ・御書全集328ページ)との一節によるのであろう。

しかし、大聖人は「本門の教主釈尊を本尊とすべし」と述べられたが、その具体的な姿として「いわゆる宝塔の内の釈迦・多宝、外の諸仏ならびに上行等の四菩薩、脇士となるべし」と説明されており、これが「観心本尊抄」で示された、虚空会の儀式を用いた御本尊の相貌を指すことは明白である。そもそも「報恩抄」を送られた浄顕房は、同時に曼荼羅本尊も授けられている。

その浄顕房に対して、さらに詳しく御本尊の説明をされたのが「本尊問答抄」(弘安元年〈1278年〉9月)である。

「法華経の題目をもって本尊とすべし」(御書新版302ページ・御書全集365ページ)

「本尊とは勝れたるを用いるべし。(中略)末代今の日蓮も、仏と天台とのごとく、法華経をもって本尊とするなり。その故は、法華経は釈尊の父母、諸仏の眼目なり。釈迦・大日、総じて十方の諸仏は、法華経より出生し給えり。故に今、能生をもって本尊とするなり」(御書新版303ページ・御書全集366ページ)

あらゆる仏を仏にした「能生」の法である南無妙法蓮華経こそ本尊とするべきであり、ここに万人成仏の大法を根本とする大聖人の御本尊観は明快である。

また、大聖人が「本門の本尊」を教示される際、諸宗は〝迹門の本尊〟等であることを強調された点も忘れてはならない。「観心本尊抄」では、迦葉・阿難や文殊・普賢などを脇士とした始成正覚の釈尊の例(御書新版136ページ・御書全集248ページ)、阿弥陀仏などを本尊とする例(御書新版146ページ・御書全集254ページ)などを挙げられた。本門の釈尊が地涌の菩薩に付嘱した虚空会の儀式を用い、万人成仏の大法である南無妙法蓮華経を中心とした「一閻浮提第一の本尊」(同)でなければ、末法の一切衆生の成仏を果たす「本門の本尊」たりえない。

この「本門の本尊」を受持し、自行化他にわたり唱える南無妙法蓮華経の題目が「本門の題目」である。そして、「ただ法華経を持つを持戒となす」(御書新版389ページ・御書全集42ページ)と仰せのように、妙法を受持・実践することが持戒となるのであるから(受持即持戒)、「本門の本尊」に「本門の題目」を唱えるその場が「本門の戒壇」となる。

宗門は信徒支配に悪用

日興上人は「この御筆の御本尊は、これ一閻浮提にいまだ流布せず、正像末にいまだ弘通せざる本尊なり」(御書新版2180ページ・御書全集1606ページ)と述べ、大聖人が顕されたすべての御本尊を等しく大切にし、書写し多くの門下に授与された。この御精神を継承するからこそ学会は、「本門の本尊」を「末法の衆生のために日蓮大聖人御自身が御図顕された十界の文字曼荼羅と、それを書写した本尊」と定めている。

一方、日蓮正宗では、「本門の本尊」は〝弘安2年の御本尊に限る〟と主張しているが、そのような大聖人の御教示はない。大聖人は、〝迹門の本尊〟等に対して「本門の本尊」を顕されたのであるから、「本門の本尊」の中の勝劣を示す御書がないことは当然であろう。

しかも日蓮正宗は、あろうことか、御本尊を信徒支配の道具にする暴挙を犯した。第2次宗門事件で、学会員への御本尊下付を停止。〝御本尊をもらいたければ従え〟と、信仰の根本を〝人質〟にした、仏法者にあるまじき卑劣な行為であった。そもそも日蓮正宗は昔から、多額の供養への褒賞として御本尊を授与するなど、御本尊を供養集めに悪用してきた歴史がある。「日蓮がたましいをすみにそめながしてかきて候ぞ」(御書新版1633ページ・御書全集1124ページ)という大聖人の御精神など微塵もなく、御本尊への信すらあるのか疑わしい。

大聖人直結の仏意仏勅の教団として学会は、日寛上人書写の御本尊を授与し、広布を進めてきた。大聖人が末法の民衆のために確立された三大秘法、なかんずく「本門の本尊」を、正しく受持・流布してきた学会によって、全世界に「法華弘通のはたじるし」が輝きわたっている。

(「創価新報」2023年10月23日付)

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