連載企画◆Look Up〜学会次世代の声〜① 「死」について考えた 母は答えを持っていた[せらゆうすけの場合]

私がアメリカの大学に留学している時、あるキリスト教徒の親友と食堂で語り合い、それぞれの宗教の生命観や生死観について意見を交わした。

留学して間もない頃で、英語もままならない時期であったが、友人は私の話にじっと耳を傾け、仏法の生命観を感動をもって聞いてくれていた姿が忘れられない。

宗教の話題を中心に、何度も対話したことが懐かしい。互いの宗教は違っても、信仰を通して私たちは「何のために生きるのか」と、人生について深く思索し、自身の生き方について考えることができたのだ。

押し付けによって子どもが積極的に宗教活動をすることはない。〝活動家〟といわれる学会2世、3世のメンバーは自ら信仰を選び取っている。それは、他宗教においても同じことではないだろうか。アメリカ留学中は、生まれた時から家庭がキリスト教を信仰しているという友人と多く出会った。信仰心に違いはあっても、宗教を通して人生の生き方を模索している多くの若者がいることを実際に目にしてきた。

私自身、親から信仰を強制されたことはない。それは、いたずらに信仰を隠されていたというわけでもない。両親は子どもだった私を一人の個人として尊重し、信仰の歓喜や確信を語ってくれた。

まだ私が小学生の頃、テレビや本に影響されて不安になったのだろうか、急に「死ぬ」とは何なのかと思いつめるようになった。人は死んでしまったらどうなるのか。親や大好きな友人とも離ればなれになってしまう。そう考えると、急に悲しくなった。心が落ち着かず、その思いを両親に打ち明けた。

すると母は私を家の仏間に呼び、仏壇の前に。「だから私たちはお題目をあげているのよ」。一緒に題目を唱え、〝生死を超えて必ず家族とも友人とも出会うことができる〟と確信を持って語ってくれた。母の話す一言一言の響きに心の奥が安心し、少しでも題目の良さを味わいたいと、自分の意思で祈るようになった。

生命は今世だけのものではなく、過去世・現在世・未来世の三世にわたるものであり、過去世の行為が因となって、現在世(今世)の結果として現れ、また、現在世の行為が因となって、未来世の果をもたらすと見るのです。
引用:SOKAnet 宿命転換

あたかも「宗教を持っている家庭に生まれることが悪い」とのイメージを作ろうとするかのような一部メディアの報道がある。だが宗教なくして、人間がもれなく向かっている死について、果たして、私の幼い頃の問いに確信を込めて自分の意見を言える大人が、どれほどいるだろうか。確固たる生死観、人生の哲学を子どもに語れる大人でありたい。

この記事のtag

#宗教 #仏法哲学 #体験談

おすすめ記事