発達障がい(ADHD)グレーゾーンの〝僕〟といたしましては④・完 〜「自分らしさ」と咲く日を信じて〜

社会人になった。
覚悟はしていたつもりだったが、毎日がヒヤッとする瞬間の連続。

〝僕〟の場合、大きく〝やらかして〟しまった記憶は蓄積されているらしい。
何かあると、その時のダメージと一緒に、似たようなシチュエーションで起こしてしまった過去の失敗の光景が脳裏に戻ってくる。ズンッと落ち込み、気持ちを切り替えるのに少し時間がかかる。

同じような失敗は避けたい。でも似たようなミスであっても、それが起こった場所やタイミングが少しでも違うと、経験はリセットされてしまうようだ。〝やらかす〟たびに、思い返す失敗の数だけが増えているからヤッカイだ。

働き始めて半年くらい。自分の生きづらさを親に打ち明けた。悲しい思いをさせたくなくて、それまでなかなか言いだせずにいた。

「まあでもあんた、こういう文まとめられるじゃない」
親はあっけらかんと言った。

打ち明ける時、直接話すことがどうしてもためらわれた〝僕〟は、これまで感じてきたこと、経験したことをプレゼン資料にして書面にまとめ、親に〝提出〟していたのだった。いま思えば、随分とまどろっこしいやり方だったと思う。

親は資料の中身より、〝僕〟がカタチにできたものを〝拾って〟くれた。生きづらさを伝えることで、〝ないもの〟より、〝あるもの〟を見つけてくれた人の支えで、これまでもなんとかやってこれたのだと思う。

学生部の同期たちも、大学を卒業していろんな仕事に就いた。
それでも折々に会っては、一杯引っかけたりする。

大人になるってことの一側面なんだろうか。大学の時と比べて、失敗談やうまくいかないことにまつわる話題が少し増えた気がする。

自慢にならないが、失敗の数、種類だけは自信がある。
一人の悩みに、〝僕〟の持つ失敗コレクションの一部で返しを入れると、笑いといっしょに〝何か〟が吐きだされ、またジョッキから炭酸といっしょに〝何か〟が喉を通っていく。

〝カタチがちがうだけで、悩んでるのはいっしょなんだ〟
離れてもまた集まって、笑い合える友達が〝僕〟にはいた。

一人がふと言った。
「俺たちってほんと、『桜梅桃李』だよな」

桜梅桃李の己々の当体を改めずして無作の三身と開見す
(御義口伝 御書新版1090㌻・御書全集784㌻)

これは現役学生時代、学生部の同期間での合言葉だった。

もともとは、日蓮大聖人が創価学会の経典・御書に、「自分らしさ」を例えて、各々の花がそれぞれの時期や特有の美しさを持って咲く様を説いたもの。

何ができて、できなくてとか。誰が良くて、ダメとか。そんなものは関係なく、同い年としていっしょに築いてきた時間を確かめ合うような、楽しげな声が心地良く〝僕〟の胸に響いた。

いま、こうして原稿を起こしている間も、〝僕〟は別の用事を忘れているかもしれない。誰かにとてつもない迷惑をかけているかもしれない。自分が学会で役に立たない理由を挙げれば、おそらく10でも100でも出てくる気がする。

でも、こうして原稿を書く1つの機会を〝僕〟に与えてくれた人がいることも事実だ。

だから、数えきれない失敗の〝過去〟よりも、目の前にある1つの〝いま〟を大事に、きょうも生きてみよう。この生きづらさが、〝僕〟の「自分らしさ」として咲く日を信じて。

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