好きの盲目性と持続性〜〝充実〟にアップグレードする信仰の役割〜

〝好きなことで、思いのままに生きよう〟
こうした趣旨のテーマやキャッチコピーを掲げたコンテンツをよく見かけませんか?

動画視聴、サウナ、推し活、ジム、古着屋巡り、ネトゲ……。
何に取り組み、何で自分を彩るのか。たくさんの選択肢の中から、私たちはファッションのようにライフスタイルをコーディネートしています。

人生は一度きり。限られた時間を投資するのに、なるべく後悔はしたくない。
そこで一つでも多くの選択肢を吟味し、取捨選択するための判断基準が、〝好き〟という直感的な感情によって成り立っているんじゃないかと思います。

ただ人の感情というものは、瞬間瞬間に移り変わるもの。〝好き〟という気持ちも、何に、またどのように向けるかでいろんな影響力を持ちます。うまくいくこともあれば失敗もある。瞬間的に感じた〝好き〟を、その後の〝充実〟にアップグレードしていくためにはどうすればいいのでしょう。

信仰を持つことは、自分の発想や発言に根拠を持つことだと私は思います。日蓮仏法の視点から、〝好き〟の盲目性と持続性という視点でちょっと考えてみました。

制御しきれない盲目性

〝好き〟という感情には、人を突き動かす強い力があります。
自分の生活を充実に向かわせる上で起こる行動選択の数々は、ほとんどがこの気持ちの延長線上にあるんじゃないでしょうか。

ですが、その直感性の高さは、時に制御できない盲目性を伴うことがあるといえます。
要するにまわりが見えなくなってしまう。歯止めの利かない〝好きなだけ〟〝好き放題〟は、まわりの人や環境が傷つくような結果を時に招くこともあるのです。

情報が多く、自由性も高い時代にあって、あらゆる分野でリテラシーを養う重要性が強調されるようになりました。特にSNSに関しては、著作権・肖像権侵害、誹謗中傷による人権侵害などに対する知識や理解が不可欠です。

ただ、感情で動く人間という存在そのものをとらえるリテラシーは、六法全書などから得ることはできません。生命という心や感情の本質に迫った信仰の中でこそ、それは養うことができると私は思います。

仏法には「依正不二(えしょうふに)」という考え方があります。一人の人間の心の動きが、周囲の他者や環境にも影響を及ぼすことが説かれています。

あふれ出た感情を一歩引いた視点から見つめ、理性的な行動判断につなげる。
そうすることで、〝好き〟は自分だけでなく他者の充実にもつながる力を持つようになるのかもしれません。

極めるための持続性

「熱しやすく冷めやすい」とよく言います。
私も飽き性な方なので、なかなかにギクッとくる言葉です。

〝好きだ!〟と最初に感じた時の温度感をそのまま保ち続けるのって、正直、ほぼムリなんじゃないかと思います。〝好き〟を続けたり極めたりしようとすると、苦手なことが新たに見つかることだってありますから。

「『あと1日となった時に歩くのをやめたのでは、どうして都の月を詠ずることができようか』(新2063・全1440、通解)
(中略)一人前になって認めてもらった自分を想像したら、諦めんのは絶対もったいないって思う」

引用:2023年2月20日(月)付・聖教新聞「START〜私が選んだ道〜」

本年2月、聖教新聞に掲載された「信仰体験のページ」で、知識・経験ゼロからシステムエンジニアとして働いている学生部のメンバーが紹介されていました。苦手な仕事をやり続けていること自体に脱帽しちゃいますが、彼はきっと、〝苦手にあえて飛び込むことが好き〟なんじゃないかと思います。

描いた理想にたどり着くまでの、〝嫌い〟や〝つらい〟と向き合うギャップ。でも、それがあるからこそ、自己実現は人間的な成長とセットで手に入れられる。ネガティブな感情に名前をつけたり、実況ができたなら、ゴールまでの道のりもまた〝充実〟。日蓮仏法には、そうした見えない時間を乗り切るためのメソッドがあふれいています。

〝え、しんど……〟となった時、私たちはそこに取り組む意義を問い始めます。そのモヤっとした気持ちも、実は〝好き〟の純度を高める大事なエッセンスだと捉えることができないでしょうか?

この記事のtag

#宗教 #仏法哲学