公明党の立ち位置って中途半端!?

友人Y「公明党って、連立離脱して、なんか中途半端な立場じゃない?」

私「いや、中道改革の軸を目指すんだよ!」

友人Y「でも中道って、どっちつかずじゃないの?」

──そんな友人Y氏とのLINEのやりとり。
「だよね、そう見えるよね…」と共感しつつも、ふと我に返った。

もし中道が、ただの"真ん中"でしかないなら、確かに存在意義は薄い。

私は公明党の支持者として、改めて、中道という概念をあらゆる角度から紐解いてみた。その学びの機会を与えてくれた友人Y氏への感謝を胸に、いまこのコラムを書いている。

中道は単なる調整役?

まず、よくある誤解を指摘しておきたい。
政治的な「中道」はしばしば次のように理解されてしまう。

「左派と右派の間」
「リベラルと保守の妥協点」
「どっちつかずの安全運転」

しかし本来の中道は、そんな曖昧な立場ではない。
中道とは、二極対立の真ん中に立つことではなく、対立する双方と向き合い、粘り強く対話と調整を重ねながら、その対立を乗り越えていこうとする「第三の立場」であると考える。

この視点で歴史を見れば、中道が社会に一定の影響を与えてきた例は少なくない。

英国のブレア政権は「サード・ウェイ(第三の道)」を掲げ、「市場原理主義か、高福祉国家か」という従来の左右対立の二者択一的な議論に疑問を投げかけ、当時の状況の中で国家像を再設計しようとした。

フィンランドでも、中道勢力が「都市と地方」「保守と改革」といった対立が生じやすい論点をめぐり、調整的な役割を担ってきた側面がある。

日本においても、1990年代に公明党が推進したPKO(国連平和維持活動)協力法は、国際社会への「関与か不関与か」という単純な二者択一を超え、人道支援という分野での貢献を模索する新たな道を開いた。

いずれの事例も、決して万能ではない。歴史的評価も分かれるだろう。
それでも共通しているのは、中道が単なる「調整役」にとどまらず、社会構造そのものに働きかけようとした点である。
中道は、立ち位置次第では現状追認に終わる。
しかし同時に、そのあり方次第で、社会を動かす確かな思想ともなり得る。

弱者を生まない社会へ

では、今の日本で「中道」は何をめざすべきなのだろうか。
私は、公明党が真の中道政党として、日本の進路に責任を持つ存在であってほしいと心から願っている。

公明党の西田実仁幹事長は、国会内での記者会見(2025年11月25日)で、「中道改革の結集軸」となる具体的な政策の柱の一つとして「社会保障改革」を挙げ、次のように語った。

「尊厳を大事にした弱者を生まない社会をつくり出す意味から、ベーシック・サービスの考え方を基本にして改革を進める」と――。

この言葉は、今の日本社会が直面する課題を的確に捉えたものとして、強く印象に残った。

人口減少と少子高齢化が同時に進み、社会保障を支える担い手は細りつつある。地域間格差も広がり、非正規雇用の増加、社会的孤立、ヤングケアラー、介護離職、教育機会の偏在など、困難を抱える人々の問題は、もはや個人の努力や自己責任では説明できない。これらは明らかに、社会構造の歪みから生じている。

だからこそ、公明党が先頭に立ち、「弱者を支える政治」から「弱者を生まない社会」へと舵を切る役割を果たしてほしい。

孤立を未然に防ぐ地域づくり、学び直しの機会の保障、安定した働き方の確保、出産・子育てに伴う負担の軽減。人が困難に陥る「結果」だけを救済するのではなく、困難に陥る「リスクそのもの」を減らし、誰もが何度でも人生を立て直せる社会を実現する政策が、いま強く求められている。

また、支援が誰かの善意や献身に依存する社会から、「尊厳が制度によって守られる社会」へと転換することも不可欠だ。

介護や保育を家族の自己犠牲に委ねるのではなく、支援を「遠慮なく使える当たり前の権利」として保障する。障がいや病気、貧困、ひとり親といった立場の違いによって将来の選択肢が狭められることのない社会は、結果として、多くの人に安心と安定をもたらすはずである。

こうした方向性は、公明党が掲げる「中道改革ビジョン」にも示されている。
このビジョンをさらに深化させ、具体的な政策として明確に打ち出し、国民に広く共有していくことこそ、いま公明党に求められている中道政治の責任ではないだろうか。

最後に、一言添えておきたい。

「公明党が中途半端かどうかは、これからの政策と行動を見て判断してほしい」

その思いが、友人Y氏の心に少しでも届くことを願い、返信を待つことにしよう。

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