発達障がい(ADHD)グレーゾーンの〝僕〟といたしましては③ 〜拾っていてよかった〜

薬での治療などは断った。
これからどうすればいいのだろう。生きづらさの名前が分かったからといって、〝僕〟は〝僕〟のままだ。明日からもそれは変わらない。

「発達に問題があるみたいなんです」
とりあえず〝僕〟は、学生部の先輩や大学の同級生にクリニックで言われたことを伝え始めた。

「ふ〜ん」「そうだったのかぁ」

みんな耳を傾けてくれながらも、反応に困っているように思えた。自分でもどうすればいいか分からないのに、それは当然の反応な気がする。ただ〝僕〟は、「生きてていい」と言ってほしかったのかもしれない。でも周りを戸惑わせてしまったという罪悪感に、また落ち込んだ。

人に言ってどうにかなるものでもない。諦めたような気持ちでいたある日、また〝僕〟は何かの用事を忘れた。思い出してため息をつく。その場には、学生部の同期が一緒にいた。心配そうな彼に、ふともらしていた。「発達に問題があるらしい」

それから堰を切ったように弱音を吐いた。忘れてしまうこと、人の話に理解が追いつかない時があること、それを隠そうと取り繕って接してしまうこと……。自分という人間がいかに何の取り柄もない存在かを、半ばやぶれかぶれに話した。

〝これでまた嫌われる〟

「でも〝僕〟、全部拾ってくれるしな」

同期から返ってきたのは意外な言葉だった。
〝拾う〟というのは、会話の中で出てくる言葉一つ一つに返しを入れること。お笑いが好きな同期と、〝僕〟の普段の掛け合いは漫才みたいなところがあった。同期がボケて、〝僕〟がツッコむ。お互い別にプロではないから、他の人が時にスルーしてしまうようなフリに対しても、〝僕〟は必ず返しを入れた。

それは〝僕〟が自分に課した、〝なにも否定しない〟ルールに基づくものだ。
〝僕〟にとってスルーは、言葉の中で一番の否定形だという思いがあった。〝拾われない〟つらさというのは、存在そのものが否定されている気がするから。

結局は自分を守るためだけの身勝手な考えだと思っていたものを、彼は肯定してくれた。

「またな」
今後も変わらない関係でいられると思うと、肩が少し軽くなった気がした。

〝生きててもいいんだろうか〟
それから御本尊に祈る方向性はいつからか、自分が生きる理由を模索するようになっていた。

〈④へつづく〉

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